ブログ

事業再生の話(前編)

これまでに起業時や起業家支援の話、社会起業家支援の話を紹介してきました。ここでは事業再生の話を書いてみます。

事業再生を始めるきっかけになったのは東日本大震災を通じてです。東日本大震災により、生活や仕事環境が変わった方も多くいるかと思います。2011年3月11日の直後には東京でも輪番停電が起きて、電気が繋がらない時がありました。

東北の被災地では思い出が詰まった数多くの場所が津波で流され、また、大切な人たちが亡くなった方も多くいました。起業家・経営者にとっても東日本大震災により、多くの前提が変わり、中には自己破産や民事再生をする人も出てきました。私自身が強く問題意識をもったのは、こうした自己破産や民事再生をした経営者に対して、世間の風あたりが厳しかったということです。これまでは多くの雇用を生み、また責任をもって事業をしていた方に対して、会社を破産させたことにより過度な叱責があったり、また、その後の生活を支えることがない現状をいくつか目の当たりにしました。経営者にとって、上手くいくこともあれば上手くいかないこともあります。そして、どんな優秀な経営者でも1つの失敗により会社を倒産させてしまうということはあります。しかし、そこでその人の経営者としての人生を終わりにしてしまうことは、あまりに勿体ないと思いました。何よりもチャレンジをしようと思う意志を削いでしまうことは、日本にとって勿体なく、あまりに大きな損失になると強く感じました。

そこで、『日本でも再チャレンジが当たり前にできるようにしていきたい』と思い、事業再生を手掛けるようになりました。

いくつかの事業再生で実績をあげ、また、破産管財人(日本では破産した企業には裁判所が選定する弁護士がつきます。裁判所側の立場で破産処理を進める弁護士のことです)からも難易度の高い破産事案は相談が来るようになりました。元々、多くのベンチャーに携わっておりゼロ⇒イチは得意でした。事業再生の場合は元々のベースとして事業があり、良い事業を伸ばし、悪い事業を撤退させることで企業価値を向上させることが出来ました。これは向いているのではと思い、いくつかの事業再生において価値を発揮することが出来ました。そのような中で、リミックスポイントと出会います。当時、リミックスポイントは売上1億円ちょっとで時価総額も4億円程度という状況でした。創業者の吉川さんは2回企業を上場させたことがあり、ベンチャー経営者に多くのネットワークがあった方でした。

経営者交流会で数年前に知り合っていた吉川さんが、私が事業再生をはじめていたことを知り、ちょっと協力してくれないかというオファーがありました。私自身、上場企業ははじめてであり、勉強するところもあるなと思い社外取締役なら良いですといって関わったのがきっかけでした。当時、リミックスポイントは自社で開発した中古車査定システムをオートバックス等中古車買取り業者に対して販売をしていました。中古車の買取りは一般的に「車両の種類」と「走行距離」で価格を算定し、取引がされることが一般的ですが、事故車の場合は価値が大きく毀損します。リミックスが当時開発していた中古車査定システムは、この事故車を買取り経験が低い人でも見抜き、そこから買取り価格を提示するというシステムでした。ただ、今思っても、このビジネスで企業価値が伸びるとは考えられません(笑)。さらに、業績も非常に悪く、株価も低迷していたこともあり、当時は「ハコ企業」として問題がある会社の1つとして認知されていました。

リミックスポイントの社外取締役になることを周りの人に伝えたところ、止めた方がいい・・・という忠告も多くの人からもらったのですが、実際に会社に行ってみると働いている人は非常に真面目な人ばかりでした。
当時、水天宮前駅から徒歩2分程の30坪程のビルに入っていたのですが、社員は4名。残りは業務委託や外注などで中古車査定システムのアプリケーションの開発と保守をしていました。
それまで、多くのベンチャー企業の立上げに関わってきた身としては、もっと狭いオフィスや雑居ビルからスタートする企業は沢山あり、上場企業として経理・総務の体制も最低限出来ており、正直なところ思っていたよりも可能性があると感じました。

はじめの一年間は社外取締役として毎月1回の取締役会に参加する程度でしたが、1年目の終わりに差し掛かる時に、オートバックスからの契約が切られることになりました。その当時、売上が1~2億円前後を推移していましたが、その売上の98がオートバックスからのものでした。これが無くなってしまうと、事業が本当に無くなってしまいます。文字通りの「ハコ企業」になってしまうリスクもあり、皆が途方にくれていたので、取締役会で言いました。「じゃあ、僕がリミックス再生させます」それまでは毎月一回の取締役会に参加する程度でしたが、そこから週3~5日、水天宮前の事務所に行くことにしました。

これまでの売上が無くなってしまう分、従来の事業に固執をする必要がありません。もともとが起業家であり、起業家支援をしていたこともあり、事業を立ち上げることについては何の抵抗も苦労もありませんでした。
当時、東日本大震災の後でエネルギー問題が叫ばれていた時代だったので、これから社会的にもニーズがあり、継続性があるビジネス領域は何かと考えた際にすぐに省エネというテーマは思いつきました。
たまたま、省エネコンサルティングをしていた会社のメンバーが、元々いた会社の経営が悪化して困っているという話を聞き、それなら一緒にやりませんかという話になり、省エネ商材を取り扱えるメンバーが20人程加わりました。当初は、加わってくれたメンバーが持っていた従来の顧客だけで10億円近い売上があがると期待していたのですが、そんなに上手くビジネスはいきません。初年度の売上は1.3億円という結果に終わりました。

その当時は事業も組織も財務も非常に脆弱でした。時価総額も4億円~10億円の間を低迷していた時でした。ただ、せっかくやるからには何か目標を持ちたいと思いました。目標にする指標として、売上や利益など様々な数的指標が考えられましたが、やはりそこは上場企業なので時価総額が最も適切だろうと思い、当初は時価総額100億円を目標にしようと思いましたが、時価総額100億円だとあまりに小さく、せっかくなら時価総額1000億円を目標とすることを決めました。時間軸も決めることとし、当時から5年後の『2018年までに時価総額1000億円にしよう』と決めました。当時、売上1億円ちょっと、経常利益▲1.5億円。社員25名位。現預金3000万円位。時価総額は4~6億円の状態でした。金融機関や取引先に対して、「見ててください。これから5年で時価総額1000億円にしますから」という話をしても、皆が相手にもしてくれませんでした。『相手にもしない』というのは本当に適格な表現で、笑ってもくれないし、もちろん賛成もなければ否定すらありません。本当に言っていることが分からない相手に対しては本当に人は無関心になれるんだなと強く感じた日々でした。
でも、当時の社員は非常に情熱的でした。当時は上場こそしていましたが、売上も財務基盤も弱く、さらには様々な風評もあり受注が取れたと思っても与信データで弾かれて失注するということがよくありました。ただ、省エネ商材の提案や省エネ補助金については当社の社員は非常に真面目に勉強し、提案をしており、どこよりも真摯な提案が出来ているという誇りが社員の皆にありました。その分、売上をどのように作り、どうやって利益をあげていくかということに対して、非常にアグレッシブでした。

そうした社員の思いもあり、何とか企業として結果をあげていきたいと思っていたところ、省エネ事業部の社員から「小田さん、うちで電気も売りませんか?」という提案がありました。
その話があったのは、2014年だったのですが電気事業法が改正されて2016年4月1日から一般家庭を含めた低圧市場(50kw未満)についても東京電力など大手電力会社以外からも電気契約を切替えられるようになろうとしていた時代でした。

既に高圧市場(50kw以上)については電力自由化がされていましたが、「電気を電力会社以外から購入する」という概念がまだ無く、電気を販売することが出来るとは全く思っていませんでした。
しかし、調べてみれば調べるほど、この電力市場は奥が深く、また、当社が展開している省エネ事業との相性も非常に良かったです。また、当時リサーチをしていたところ電力事業を展開している企業で時価総額1000億円を超える企業もありました。

「もしかしたら電力事業を展開したら時価総額1000億円に近づくかもしれない」
 そうした思いも加わり、電力事業をスタートすることを決めました。当時、いきなり電力事業といっても全く知見が無かったため、当時新電力として成長をしていた法人と組み、電力受給管理を含めた電力事業への知見を高めていきました。当社が電力を調達し、電力の卸販売事業なども行っていき、2015年3月期には売上39.4億円、営業利益2.1億円という成績を上げることが出来ました。

関連記事

ブログカテゴリー

アーカイブ
PAGE TOP