頑張る人の物語

藤野良太

『藤野良太との出会い』1/5編

中野信治(なかのしんじ)
レーシングドライバー
国際カートGPで日本人初優勝・大会最年少記録に輝く。日本人では数少ないF1フル参戦デビューも果たし、CARTにおいても日本人史上最高位となる4位獲得。事実上の日本におけるトップレーシングドライバー。
http://www.c-shinji.com

 
それは春を感じさせる気候になった頃だったか、一通のメールが僕が運営する NGO-terminal 事務局のもとに届いた。

 その頃、僕は多少忙しい生活を送っていた。 2000年12月に立ち上げたNGO-terminalは学生やNGO/NPOの活動を資金・広報・運営ノウハウの面からサポートをしている。若くて自ら活動をしていこうという人達が全国から多く連絡を寄せてきたことから、企業に対しては対若者の商品開発やプロモーション、採用関係の戦略立案をサービスとして提供していた。特に学生が企画するイベントは夏に多く、また企業も夏休みに合わせての商品・企画開発をする事が多く、その準備に関する問合せや打合せが4月末に集中していたのだ。

「8月に3,000人位集めてのイベントをやりたいが、どこか協賛してくれる企業は無いか?」「サマーインターンシップを効果的に行うにはどうすればいいか?」など様々な問合せが寄せられてきていた。

 そのような中だった。一通のメールが僕のもとに届いた。

 依頼の内容は多くの他の団体と似ているものだった。現在企画中の活動で、協賛してくれる企業がいたら紹介してくれないか?というような趣旨であり、活動内容はアフガニスタンにW杯を届ける事で平和をもたらしたい。詳しくは添付資料を見て欲しいとのことだった。当時は2002年日韓ワールドカップを前にサッカー関係のイベントも多く行われていた。実際にこのW杯に便乗してイベントを企画している別の団体からも連絡が来ていたので、またこの手のものかとメールを読んだ段階で思ってしまっていた。

 ウィルスで無いことを確認しながら、メールに添付されていたファイルをダウンロードして内容を読んでみると多少がっかりしてしまった。ある意味怒りさえ感じていた。恐らく第1印象が悪かったせいもあるだろうし、企画書としての質もそこまで高くなかったからだろう。アフガニスタンの人達はきっと食べ物や衣料品、住む所などもっと暮らしていく上で最低限必要なものを求めているんじゃないだろうか。それなのに、今がサッカーW杯の時期だからといってW杯を届けるというのは表面的な取組みであり、かえってアフガニスタンの人達には迷惑になるのではないかと思ったからだ。

 そうはいっても折角連絡をくれた訳だし、当時ある国会議員がアフガニスタン支援の企画を進めようとしており、そこに僕も一部関わっていた関係もあったので、いつも打合せに使う渋谷マークシティ3階のスターバックスにてメールをくれたアフガンプロジェクト代表の藤野良太と会うことにした。

■『アフガンプロジェクトとは』

 約束の時間に5分遅れて、藤野はやってきた。多少の遅刻を詫びた後、簡単に自己紹介をしてくれた。慶応大学1年生とのことだ。飄々としていて、常に笑顔をたやさない。こちらも自己紹介をした後、藤野がやろうとしている企画についての説明を受けた。前述したように、藤野と会う前までこの企画に関して僕はあまり積極的でなかった。否定的という言葉の方が適切かもしれない。ある程度話を聞いた中で、当初感じていた問題意識、すなわち“もっと他にやるべきことがあるのではないか”ということを言おうと思っていた。

 藤野が話を始めて10分後、僕はこの考えを完全に捨てていた。そして、藤野の企画に対して否定的な考えを持ってしまっていた自分に対して強い反省の念を抱いた。藤野は教えてくれた。アフガニスタンの人々がサッカーをとても愛していることを。そして、タリバン政権下においてサッカーが禁じられていたこと(この点について、多少の事実の誤りがあることに藤野自身が後になって気づく。詳しくは後述)、そしてタリバン政権が崩壊した後にアフガニスタンの子供たちがサッカーを心の底から楽しんで遊んでいることを。そして考えた。実際にW杯をアフガニスタンに届けた際に彼らが得る楽しさの大きさを。そして、他の援助物資による支援ではなく、内発的な喜び・楽しさを得て何か新しい事を自らの手でやっていこうとするアフガニスタンの人達の顔が脳裏によぎった。

 『W杯をアフガニスタンに届ける』といっても分かりにくいだろうから、ここで藤野がやろうとしているアフガンプロジェクトの概要をまとめておく。主な活動は4つある。一つ目がアフガニスタンの首都カブール市内にW杯放映機材(TV・パラボナアンテナなど)を設置し、映像をみること。二つ目がアフガニスタンおよび世界各地の子供たちにサッカーボールを 2002 個送ること。三つ目がカブールのオリンピックスタジアムで現地のクラブチームのサッカー大会をW杯と並行して開催すること、また、日本でも横浜においてフットサルの大会を別に開催すること。四つ目がオリンピックスタジアムで子供たちのためのサッカー大会を開催することだ。藤野が話を進める中で僕は非常にこの活動に興味を持った。また、この活動が成功すれば、国連や他のNGOが支援しているのとはまた違ったやり方で、また違った意味で意義がある活動なのではないかと信じていた。

 そうしたこともあり、僕は藤野に尋ねてみた。なぜ、このような企画を始めようと思いたったのかと。

■『9.11』

 きっかけは9.11のテロだったそうだ。藤野は当時の年齢で20歳。まだ若いので人生において経験する“事件”の数はそこまで多くなかった。しかし、20年生きてきた中で藤野は歴史を学ぶ機会があった。歴史を通じて“事件”に触れる機会は多々あった。世の中には様々な“事件”があり、それが社会を動かしてきて、歴史をつくってきた事を彼は感じていた。しかし、今その“事件”が彼の目の前(もちろん、テレビを通じてであるが)起きたのだ。世界貿易センタービルに2機の飛行機が突っ込んでいくシーン、藤野は何度もその場面を見直した。また、その後のニュース放送を聞いていく中である事実を知った。

 その事実とはニュースの報道で知ったのではない。ニュースを見聞きする中で、彼自身が自らの中で発見した事実だった。それは、様々なものが今まで隠されてきたという事実だった。経済格差、飢餓、政治的抑圧など目には見えてこなかっただけ、あるいは見えてきてはいたがその深刻さをそこまで痛感する事はなかっただけかもしれないが、確実に存在する事実が今まではしっかりと報道されてこなかった。 これらが9.11のテロによって明るみになった。そして、藤野は考えるようになった。思い描くようになった。自分とは違う環境にいて、日々が生死の境目をさまよっている人たちのことを。

 2001年10月、アメリカがアフガニスタンへの空爆を本格的に始めたころだった。あるフォトジャーナリストがNews23に出演していた。その人は長倉洋海という人でアフガニスタンからの中継で現地レポートをしていた。藤野はこのレポートを見ながら、この人を知っていることに気づいていた。前年9月、藤野が浪人時代にたまたま予備校の授業をさぼって本屋に行ったとき、長倉の「フォトジャーナリストの眼」という本を手にとって読んでいたのだ。当時、仲が良かった友達と喧嘩をし、授業をさぼった。しかし、さぼったことへの後ろめたさがあり、せめて世界史関係の本でも読もうと思って手にとったのがこの本だった。内容がとても面白く、新宿高島屋の屋上で一気に読んだのを覚えていたのだ。本棚から本を探し出し、自分が感銘を受けた本の筆者と先程テレビに出ていた人が同一人物であることを確認した藤野は早速この写真家の事をインターネットで検索した。すると、11月に長倉の講演会があることが分かり、これは行かなくてはいけないと決意した。

■『長倉氏の講演』

 11月のある日、14時から講演会は開催された。ある本屋の地下1階のスペースが開催場所だった。ここの本屋ではよく文化人などが講演を行うそうだ。講演会は長倉洋海の帰国報告会という形で行われた。長倉洋海はある一人のアフガニスタン人を20年以上取材してきた。それはアハマッド・ジャー・マス-ドという人で、北部同盟(反タリバーン連合イスラム救国統一戦線)の指揮官を務めた人だ。彼は 9.11 のテロの 2 日前に暗殺をされていた。恐らくは対抗していたタリバン政権の者によってだろう。長倉洋海はマスードの墓参りをしてきて、それを受けての報告会でもあった。報告会開始の20分前に現地についた藤野は緊張しながら階段を下りていった。

 「今日は絶対に長倉さんと話をしよう」

 藤野は固く決めていた。全体で10列席が並ぶ中、藤野は前から2列目に腰を下ろした。会場には100人位の人が詰めかけ、立ち見も出ていた。照明は落ちて暗く、プロジェクターの光に画像が映し出されていた。「長倉洋海です」50前の男性が淡々と語り始めた。テレビで見た顔、そして浪人時代に手に取った本で見た顔だった。「今日は皆さんにマスードが残していったものをみて欲しいと思います」彼は言葉を続けた。そして、そういう彼の目は涙に濡れていて、声も震えていた。「本当にマスードのことが好きだったんだな」と藤野は感じた。そして、ここまで一人の人間を、一人の男を愛せる長倉にもさらなる魅力を藤野は感じていた。その場は圧倒されっぱなしであった。映像に圧倒された、長倉の語り口に圧倒された、そして何よりも長倉のマスードへの思いに圧倒された。ここまで人に圧倒されたことは藤野にとって初めてだった。体全身に鳥肌がたった。

マスードの葬式の模様のビデオが流されると、さらに藤野の関心は高まった。2~3万人の人が参席しており、多くの人が涙を流していた。タリバンによって参席を阻害された人もいたようだが、それにしても多くの人がマスードという人の死を悲しんでいる様子が伝わってくる。本当に立派な人だったのだろう。藤野はこのマスードという人にも興味を持った。そしてこのマスードと同じ時を過ごした長倉洋海という男に益々興味を募らせていった。丁度、藤野はこの時大学の活動関係でドキュメンタリー映像を撮っていた。その時の自分の心情と長倉の心情を重ね合わせるかのように藤野は長倉がマスードを取材していたシーンを想像していた。講演会が終わった。藤野は一緒にイベントに行った友達に話しかけた。

「帰ろう」

長倉洋海と会話がしたかった。間違いなく、藤野の人生に大きな影響を与えた人であり、これからも与えていく人だと思った。とても話がしたかった。しかし、今の自分には話をする資格がない。藤野はそのように考えていた。講演会の最後に長倉が言ったことを藤野はまだ覚えている。「タリバンが悪だと皆が言っている。でもね、あれって違うんじゃないかと思うんですよ。そもそもタリバン・北部同盟とかで枠組み作ることが間違いじゃないかと。タリバンという言葉で表される中でも多くの人がいて、中には国のために命をかけている人もいれば、悪事を働く人もいる。これは北部同盟も同じことです」

長倉は続ける
「でも日本ではこれを一つの見方でしか伝えない。大事な事は多角的に情報を伝えていくことであり、一つの枠組みで物事をみてかつそれを断定してしまうのは重大な誤りではないでしょうか。ある新聞社の人が『アフガニスタンは戦争しかない』といった趣旨の記事を書いていたので私は怒りました。『アフガニスタンには綺麗な川もある。パンシール川という綺麗な川があるんだ。人々もとても優しい。あなたは見てもいないのに何でこんな事が言えるんだ』と。せめてこの会場の人には想像して欲しいです。アフガニスタンの状況を、アフガニスタンに住む人達の顔を。そして、もう一つお願いがあります。今私が言っていることも一度疑ってみてください。」

結局、この日藤野は長倉洋海と言葉を交わさないで会場を後にした。しかし、藤野の心の中には長倉の言葉が深く残っており、またアフガニスタンの状況が頭の中を駆け巡っていた。

■『高まる問題意識』

しばらく、アフガニスタンのこと、長倉のことを考えて日々を過ごしていた中、藤野はNHKの番組でフランスのジャーナリストが伝えたタリバン政権下で何が行われていたかを伝える映像をみた。その映像では、オリンピックスタジアムで処刑が行われるシーンを映し出していた。昔はサッカーが活発に行われていたが、タリバン政権下においてここはサッカー場として利用できなくなっていた。代わりに公開処刑などが行われていたのだ。映像ではゴールポストに女性 3 人が吊り下げられ、次から次へ射殺されていくシーンが映し出されていた。しばらく、藤野はベッドに横たわりながら考えていた。そして責めていた。タリバンの非道さをではない。藤野は自分自身を責めていた。藤野は自分自身を疑った。自分には心が無いのではないかと考えていた。

テレビを見ている時は何かしたいと考える。しかし、テレビ番組が終わってしばらくするとこの問題意識は薄らいでしまう。バラエティ番組に切り替わるとそれをみて楽しんでしまう。翌日には友達と酒を飲んで楽しんでしまっている。学校の課題に意識がいってしまう。このような自分自身に藤野は問題を覚えた。特に今回みた映像はサッカースタジアムのシーンだった。藤野自身、小学校時代からサッカーを続けてきた。趣味程度ではあるが、他のどんなスポーツよりもサッカーが好きだったしずっと続けてきたスポーツだった。『ある日突然、サッカーが禁止されたとしたら、自分はどう感じるだろう?』

藤野は考えた。
『自分がグラウンドでサッカーボールを追いかけている時、地雷を踏まないかと心配しなくていい。スタジアムで応援している時、空を見上げては爆弾が落ちてこないかと心配しなくてもいい。こういう日本では当たり前の事も世界の他の所では当たり前では無い事がある。当たり前のことが実はとても幸せなことなのではないか』サッカーという共通項から自分が置かれている状況とアフガニスタンの人達が置かれている状況を彼は比較した。そのことにより、初めてアフガニスタンの人達の心境がより自分の身近なものとして理解できたのだ。そして、自分自身何かしなくてはいけないと強く思いはじめていた。

ブログカテゴリー

アーカイブ
PAGE TOP