頑張る人の物語

藤野良太

『藤野良太との出会い』2/5編

■『1枚の写真』

こうした中、1月末に再度長倉の講演会があることを知った。今回も 50 人規模の講演会で大手町で開催されるイベントだった。「多くの人に長倉さんを知ってもらいたい」藤野はそう考え、 10 人程友人を誘っていった。あまりに楽しみだったのか、藤野達は開演時間よりも大分早い時間に会場についてしまった。1月である。外は寒い。会場付近で藤野達は待つことにした。人数が多かったこともあり、また若かった事もあり藤野達は目立った。丁度、ある女性が藤野に声をかけてきた。「ちょっと準備がごたごたしちゃって間に合いそうにないから、よかったら手伝ってくれない?」この講演会の企画主の黒岩さんだった。

藤野は快く承諾した。

やがて時間が来て、講演会が始まった。前回は多少涙ぐんでいた長倉であったが今回は落ち着いていた。アフガニスタンに関する様々なスライド写真を見せながら長倉は話を続けた。1枚の写真が藤野の目に飛び込んできた。時間にして5秒程。しかし、この写真が藤野に大きな衝撃を与えた。そして、この写真がアフガンプロジェクトを発足させた決定的な要因となった。その写真の中では少年達がサッカーボールを蹴っていた。夕日が沈む中、ハイリハナという地域で少年達の後ろには墓地が続いている。内乱で殉死したムジャヒディン(聖イスラム自由戦士)達の墓地だ。6人の少年達がボロボロになったサッカーボールを追っていた。一人の子供が口をあけて笑っていた。「あ、サッカーボール蹴ってる」藤野は思わず声をあげた。しかし、本当に藤野が言いたかったのは違う言葉だった。「あ、笑ってる」

今までマスコミでアフガニスタンの映像で流れてきたものはアフガニスタンの荒廃ぶりを伝えるものであり、子供たちの泣いた顔であった。藤野は嬉しかった。サッカーができるようになったこと、子供たちが笑っていること。これは大きな衝撃でもあった。講演会が終わった。今回もまた帰ろうと思っていた。長倉洋海に話しかけるには自分はまだまだ何もしていない。そう藤野は感じていたのだ。出口付近で、会場設営を依頼してきた黒岩さんが話しかけてきた。「どうだった?講演会は」「すごく良かったです。特にあの子供たちがサッカーボールを蹴っている写真には感動しました。できるだけ多くの人に長倉さんの事を知ってもらいたいです。学生集めて講演会とか企画していきたいので、その時はよろしくお願いします」心が空っぽになる思いで言った。今まで憧れていた長倉洋海と実際に会話する機会を作れるかもしれないのだ。「是非こちらこそお願いね」といいつつ、黒岩さんは少し考えながら藤野の目をみた。「今日これから長倉さんと打ち上げいくけど、よかったら来る?」考える必要は無かった。「是非!!」

■『アフガニスタンにサッカーを』

打ち上げの席で、藤野の前に座った男、その人が長倉洋海だった。最初は表情が硬く、口少なげで自分からは何も話そうとしなかった。藤野は自分が長倉の事を多くの人に知ってもらいたいこと、そして講演会を開催していきたいことを話した。最初は長倉はあまり反応をしなかった。しかし、藤野が「あの子供たちサッカーボールを蹴っている写真、みて嬉しかったです」というと、「あ、そう」少し嬉しげに長倉は反応した。その後、藤野の記憶に残る会話はなされていない。ただ、長倉が途中で帰る事になった際に黒岩さんが気を利かせてくれて「連絡先を教えあっておいたら?」と言ってくれ、藤野は長倉の名刺を受け取った。

和紙に筆で書いた手書きの名刺だった。表には力強い字で名前だけ。裏に住所と電話・FAXが記載されていた。「企画考えたら連絡をして下さい」去り際に長倉が藤野に言った。嬉しかった。少しして、藤野達も帰ろうとした時に黒岩さんが 1 枚のコラム記事を見せてくれた。それは、西村幸祐というサッカージャーナリストが書いたコラムだった。『東京でアフガニスタン復興会議が開かれているが、日本から直接の支援として何も出ていない。W杯を通しての支援をしてはどうか。(中略)W杯を現地でみられないのであれば、現地にパラボナアンテナを送ってはどうか(以下略)』というようなものだった。

これは、西村が2002クラブというオンラインサイトに記事として書いたものだった。北海道新聞に長倉の事が紹介されると興味を持った西村が講演会を開催している黒岩さんにFAXで送ったものだ。黒岩さんは長倉にこのFAXを渡し忘れていたのだ。「これはいいアイディアだ!!」記事を読んだ際に子供たちの喜んだ顔、ワーワーと観戦している姿が浮かんできた。その場で黒岩さんに藤野は宣言した。「僕、これ実現させますよ」

■『活動スタート!』

翌日、藤野は西村の携帯に電話をした。黒岩さんが教えてくれたのだ。また、黒岩さんは事前に西村にも伝えておいてくれたらしく、話はスムーズにいった。 3 日後、有楽町にある交通会館のカフェで二人は会う約束をした。話はすぐに決まった。『やりましょう!』とはいえ、メンバーも資金も何も無かった。もちろんアフガニスタンへのルートも無い。何をどこからやればいいのか全く検討がつかなかった。
とりあえずメンバーを集めてみる。藤野が考えたことだった。話が少しそれるが、このメンバーをまず集めるという行為は目的実現のためには阻害要因になる事が多い。多くのNPOや学生の団体が、まずもっとも分かりやすくて必要だと思えるメンバー集めという行為をしてしまう。

しっかりとした目的と活動内容が決まった上で人を集めるのであればまた別だと思う。でも、目的や内容が決まっていない段階で人を集めると“楽しい団体”にはなるが“強い団体”にはならない。思い・目的・スキルの共有がされていない人達が何も無い段階で集まるといつの間にか方向性に違いが出てきて対立が生じてしまうことが多い。数ヵ月後に残るのは、意見の合う人達だけが集まる仲良しグループだ。それは他の価値観・考え方を受け入れず、またいつしか目的も見失っている。実際に周りを見回してみて思い当たるケースがないだろうか?大学のサークル、主婦の趣味サークル、会社のチーム・・・・意外と多くこうした事態は起こっていると思う。藤野の場合、どうだったのだろうか?

■『はじめてのミーティング』

藤野は2月10日に新宿の会議室を借りた。祝日という事もあってか朝 9 時からの時間帯しか空いていなかったので、その時間を借りる事とした。事前にメールや関係しそうな団体に出向いて2月10日の団体説明会の告知を行った。2月10日朝8時位に長倉の講演会に一緒に行き、藤野と同じように活動に共感した慶応義塾大学2年の買手屋有一と待ち合わせをした。当日は雪で寒かった。「何人位来るかな?資料コピーしないとね」買手屋が藤野に尋ねた。「そうだな~30人は来るだろ。とりあえず資料30部いっとこうか」また後で追加コピーすればいいと考えながら藤野は答えた。説明会会場に足を運ばせながら、買手屋と藤野は会話を続けた。「来るかな?」「いや、来るだろ~」

会議室の前に人が一人たっていた。それは、藤野が事前告知をしに説明しにいったCASTという団体の湯川伸矢だった。幸先の良さを感じつつ、藤野達は湯川を交えて 3 人で開催時刻まで待っていた。
「あれ、おかしいね」誰が言ったのか、今では覚えていない。説明会の開催時間になっても人が来ないのである。場所が分かりにくかったのだろうか?不安に思いながら少し待っていると、ちらほらと参加者が集まり始めた。 30 の予想に対して 10 弱。社会人と学生が半々だった。藤野が自らの問題意識を伝えると共に企画の概要を話した。しかし、当時はミーティングの進め方も分からず、結局実のある話はできなかった。
 
とりあえず何かやっていこうという事になり、藤野達は企画書を作り始めた。しかし、その企画書も形になっていないものだった。

■『何が何でもやってやる』

これからしばらく、藤野はもがき続けた。何をすればいいのかが全く分からなかった。答えが分からないだけではない、何が問題なのかも分からないのだ。しかし、藤野は絶対に出来るという自信があった。根拠は無かったが、自信だけはあった。また、絶対にやり遂げたいと誓っていた。元々、藤野がアフガンプロジェクトを始めたのはアフガニスタンの人のためだけではない。彼自身のためというのもあった。藤野の周りには学生ながら様々な活動をする人達がいた。僕たちの周りでは、こうした学生達の活動・団体を『学生団体』と呼ばれている。いわゆるスポーツ系サークルやイベント系サークル、勉強会サークルとは違い、大学の枠内で収まらず、社会の最先端で活躍する人達も交えつつ活動をしている団体が様々な分野である。国際交流、地域活性化、ビジネスプランコンテスト、政策提言、政治家養成、メディアプロデューサー育成、環境保護などいわゆる学生の活動とは一線を画した活動が現在様々な分野で大学生の手によって行われているのだ。こうした学生団体の代表を数人藤野は見てきた。そして、刺激を受けて憧れていた。自分も何かしたい、と。20祭というプロジェクトには関わり、成功はさせてきたがそれはゼロから彼が先頭切って立ち上げた訳ではなかった。

長倉の写真に写っている子供たちと会いたい。彼らの喜ぶ顔がみたいという気持ちとはまた別に藤野自身がゼロから何か創り上げていきたいという思いがあった。藤野が回りでいくつかの成功体験を見てきた事、これが藤野に根拠の無い自信を与えたのだろう。とにかく、藤野は絶対出来ると信じていた。自分が刺激を受けた人のようになりたいと強く思っていた藤野にとって、途中で企画を諦めるなどとは考えられもしなかった。

ブログカテゴリー

アーカイブ
PAGE TOP