頑張る人の物語

藤野良太

『藤野良太との出会い』3/5編

■『課題を克服する』

しかし、現実は何も進まなかった。活動資金も集まらないし、何をするかもまだ固まっていない。募金などを行っても全然集まらない。そのような中、1ヶ月程してある事に気づいた。「自分達って信用性が無い。あやしいぞ」いい事をやっているという思いはあっても、やはり実績も無ければ学生という身分でもある。そもそも何をやるかもまだ固まっていない。信用が無くて当然だ。「まずは世間の信用を買う必要がある」藤野は考えた。その時、丁度知人よりサッカーJ2の横浜FCのサポーターを紹介してもらうことになった。彼らは横浜フリューゲルスが解散する際に復興のために募金などをして実際にチームを復興へ導いた。その際のノウハウを教えてもらおうと思ったのだ。サポーターの人達から募金やビラ巻きの方法について教わった。ある意味“方法”なんて無いのかもしれない。しかし、これが一つの自信にも繋がってか、藤野達は募金やビラ巻きを本格的に始めた。

募金の効果は無かった。実際に募金というものはやってみると分かるが予想以上に効果が無い。僕も募金をした経験がある。賽銭箱の感覚なのか、5円や10円を入れてくる人があまりに多く、千円以上いれる人はほとんどいない。4時間位やっても2000円も集まらなかった記憶が強く残っている。しかし、ビラ巻きなどもあり活動が注目された。産経新聞にも大きくアフガンプロジェクトの事が掲載されたのだ。この記事を境に、他のマスコミもアフガンプロジェクトに問合せをしてきた。フジテレビやNHKなどでも少しづつ取材を行うようになった。少しは信用が出たのか、ビラをとって連絡をしてきてくれる人も出始めた。丁度、この時に活動内容も固めていった。最初の内はパラボナアンテナを届けるという目的しかなかったが、その他にサッカーボールを2002個世界各地に届けよう(アフガニスタンへは600個)という事も決めた。また、多少後にはなるが、現地でサッカー大会も開催していこうという事も決まった。

ある程度、物事が順調に進み始めた。新聞を読んで口座振込みで寄付をしてくれる人も現われ始めた。サッカーボールも集まり始めた。多くの人が応援してくれはじめたのだ。だが、一つ大きな課題が藤野達の前に立ちはだかった。それは放映権の問題だった。周知のようにサッカーW杯は放映権が堅く守られている。無断で放映とかをしてはいけない決まりになっているのだ。アフガニスタン現地でW杯を放映する事、これが放映権の問題にひっかかるかもしれない、このような指摘を受けたのだ。今までは何が課題かが分かっていなかった。物事が順調に進み始めてきて、それぞれで課題は表面化はしてきた。しかし、今回表面化した課題はあまりに大きく、かつあまりに本質的なものだった。自分達で考えても仕方が無いという事でマスコミ関係、サッカー関係の知人に聞いてはみたが、この事に精通している人はいなかった。事によっては活動内容を大幅に変更しなくてはいけないかもしれないのだ。藤野達は焦った。

そんなある日、ある専門家より問題が無い事を告げられた。営利目的でパラボナアンテナをたてて課金するのは放映権の問題に触れるが、非営利でパラボナをたてるだけなら問題が無い。ましてやアフガニスタンという事であれば関係が無いということだった。藤野は喜んだ。また、この放映権の問題もあってしばらくTV局はアフガンプロジェクトの紹介を取りやめていた。何かW杯関係でトラブルを起すといけないと考えたようだった。しかし、この問題が解決された事を知ると、再び多くのTV番組でアフガンプロジェクトの事、藤野の事が紹介されはじめ、ますます支援金・ボールは集まってきた。

■『アフガニスタンへ行く!』

4月になり、ある程度の形になってきた時に藤野はある事に気づいた。何か打合せが空虚になっていたのだ。あるメンバーは「アフガニスタンの女の子はサッカーなんてしないだろうから男女混合なんて考えなくていいよ」と言ったり、あるメンバーは「ルールが分からないだろうから、少し変えていかない?」と言った。藤野は何も言い返せなかった。その事が事実かどうかを判断できなかったのだ。自分達はあまりにアフガニスタンの事を知らなさすぎる。実際に現地の事を知らないで、企画を固めようとしていたが、もっと現地の事を知ってから企画を考えた方がいいのではないか。

丁度4月上旬にパキスタンより帰国した知人と会った。その人より、アフガニスタン人のローズベという男と仲良くなったという事を聞いた。どうやらアフガニスタンでも裕福な家の生まれらしく、今は国連関係の仕事もしているそうだ。電話番号などを聞き、いつでも連絡できる体制になっていた。一度、アフガニスタンに行く必要がある。こうした事もあり、藤野はアフガニスタン入りを決意した。これを決意した時に長倉洋海に会いに行こうと考えた。長倉洋海とは講演会の企画の事もあり定期的に情報交換とはしてきたが、実際に会うのは久しぶりだった。最初の講演会の際、藤野は長倉洋海に会うことをためらった。しかし、今ではアフガンプロジェクトという活動をしており、形にもようやくなりつつあった。メディアでもいくつか紹介されており、信用性もあった。ある程度は長倉にも自分を誇れたし、堂々と話がすることができた。

企画の現状と事前のアフガニスタン入りを告げると、長倉には現地への行き方とアフガニスタンのアブドラ外務大臣への紹介状を書いてもらった。「本当に子供たちが喜ぶだろうね」長倉は笑顔で藤野に言った。藤野は嬉しかった。

■『アフガンプロジェクトは誰に対して価値があるのか?』

しかし、藤野が嬉しかった理由は長倉に認められたからだけではなかった。実はこの頃、藤野達の下に多くの批判メールや電話がかかってきていたのだ。それはあるメディアが藤野の携帯番号を載せてアフガンプロジェクトの事を世界中に報じたことで加速された。記事の内容自体はアフガンプロジェクトに対して肯定的なものであったし、基本的に他のメディアもアフガンプロジェクトを応援する内容だった。しかし、トリニダードトバコ、ブラジル、イギリス、そして日本各地からアフガンプロジェクトへの批判の声が寄せられた。『Are you crazy.』『アフガニスタンには戦争しかない。この活動には意義が見出せない』『実現できっこないだろ』 という意見や中には『バーカ』『調子のってんな』とワン切りする人までいた。メールアドレス2つが潰され、アフガンプロジェクトのホームページはハッカーに侵入されもした。

多少冷静に批判をしてくる人もいた。『今、アフガニスタンで望まれていることは何だと思う?食料や医療品ではないのだろうか?君達が同じ活動をするなら、何故そうしたことをしないのか?』僕自身が最初、アフガンプロジェクトの企画書を見た際に感じた事だった。もちろん、好意的にアフガンプロジェクトを応援したいという人もいた。しかし、このような意見も多く寄せられていたのだ。
こうした意見に対して、藤野達は答えていた。

 「確かにその意見はごもっともです。ただ、人にはそれぞれやれる事があると思います。実際にサッカーをアフガニスタンに届けたからといって、彼らが喜ぶかは分かりません。ただ、僕は喜んでもらえると思うし、価値があると思う。現地にいってそれを確かめてきます。そして、報告させてください」今では僕もこの意見に賛成だ。実際に食料や医療品は国連やユニセフなどが届けている。もちろん、その絶対量が不足している事は事実かもしれないし、他にもまだ行き届いていないものがあるかもしれない。しかし、それを藤野達が行った所で国連の行う1%にも満たないだろう。逆に悪影響を与えることだってあり得る。

 国連、ユニセフは食料や医療でアフガニスタンを復興する。藤野達はサッカーでアフガニスタンを復興する。それぞれが得意分野で現地のニーズを満たせていった方がいいのではないか、こう思うのだ。
いずれにせよ、この時期、藤野達は多少困っていた。電話に出るのが怖くなった時もあった。しかし、こうした中で現地を見てきた長倉が「本当に子供たちが喜ぶだろうね」と言ってくれたことは大きな励みになった。長倉はその当時出版した自分の写真集にサインをして藤野に渡した。『アフガンでボールを蹴れる日がくることを祈っています 楽しみにしています』藤野の心が震えた。

■『アフガニスタンからの便り』

 4月の下旬、一人のメンバーがアフガニスタンに行く事になった。しかし、藤野は日本でやる事があった。藤野の代わりに英語も堪能でアフガンプロジェクトにも立上げの早い段階から関わっていた鈴木基芳が行く事になった。鈴木は4月22日日本を発ち、まずはパキスタンに向かった。実はこの時、アフガニスタンに入れる保証は無かった。やはりまだ当時は治安が危なかったのだ。パキスタンに 3 日滞在し、アフガニスタンに入れなかったら企画を変えるしかない、こう藤野達は考えていた。日本に残った藤野はパラボナアンテナやサッカーボールの空輸協力を求めて国際的運輸会社DHLの協力を取り付けたりしていた。そんなある日、藤野の携帯が鳴った。「良ちん、アフガン入ったよ~。いいとこだよ~。こっちも頑張るから日本でも頑張れよ~」藤野は泣きそうになった。

 鈴木は現地で諸々を上手くまとめてくれた。省庁を回ったり市役員にも話にいった。長倉に貰った紹介状をもとに外務大臣にも会い、現地での活動許可を得た。また、オリンピックスタジアムでサッカー大会を開催する事も了承され、その日程まで抑えてきたのだ。実はこの当時、政権の主要メンバーの多くが長倉が慕ったマスードの下で働いていた。外務大臣もしかりである。こうした事もあり、現地での交渉は上手く行った。合計2週間の旅を終え、鈴木が帰ってきた。これを機に、マスコミもまた大きくアフガンプロジェクトを紹介しはじめた。このかいもあって、活動資金もボールも多く集まるようになった。
もともと、旅費、滞在費、パラボナアンテナなど備品調達費で360万円程が必要だった。この金額が全て個人の寄付で間に合ったのだ。またアディダスがブーツとユニフォームを提供してくれたりと現地でのサッカー大会の準備も整った。

 ところで、鈴木は一つのニュースも持ち帰ってきてくれた。それは、アフガニスタンにサッカーのクラブチームが14チーム存在するというニュースだった。後に藤野が現地入りした際に詳細は把握したそうだが、実はタリバン政権下においてサッカーは禁止されていなかったというニュースだ。正確にいうと、禁止できなかったのだ。“肌を見せないように”という事で、タリバン政権下では様々な規制がかけられてきた。サッカーも他のスポーツ同様に禁止対象となりかけた。しかし、元々アフガニスタンではサッカーが盛んで、こればかりはタリバンといえども禁止はできなかったのだ。結局、半ズボンでのサッカーは禁止だが、長ズボンでやるならば認めるという事になったそうだ。とはいえ実質的に様々な規制が設けられており全面的にサッカーをすることはできなかった。このニュースは藤野達を喜ばせた。アフガニスタンの人達がサッカーが大好きであるという事実。そして制約下でも現地クラブチームがあったという事実。これを受けて、急遽現地でのサッカー大会を予選含めての本格的なものにしようという事が決まった。実際に5月下旬から6月中旬まで14チームがトーナメント戦をオリンピックスタジアムで行なうことになった。

■『様々な協力者』

 企画の中身もそして準備も順調に用意されつつあった。多くの人が藤野に対して協力をしてくれた事、これが大きい。今まで紹介してこなかった人で藤野に対する協力者で一人大きな存在となった人がいる。ケン・ジョセフという人だ。ケンは世界の被災地でボランティア活動をするJET(日本緊急援助隊)の代表だ。ある人の本を読んでケンの事を知った藤野は会ってみたいと思うようになった。たまたま知人がケンの事を良く知っているという事になり、アフガンプロジェクトを協力して欲しいと電話をすることになった。

 最初、電話越しでは色々と問い詰められた。「何のためにするのか」「何の意義があるのか」20分程電話で話をした後で事務所に来るよう言われ、数日後に事務所でアフガンプロジェクトの説明を行った。結局、虎ノ門にあるケンのオフィスを活用していいという事になり、その他もパキスタン大使館を紹介してくれたり、DHL社長を紹介してくれたりと様々な協力をしてくれた。「まあ不思議な人ですよね(笑)」ケンの事を藤野はこう語る。とても優秀なのは分かるが、非常にお茶目な人でもある。アフガンプロジェクトではずっとFIFAの協力を得ようとしていた。FIFAが後援という事になれば、活動をしていく上でとても心強い。しかし、FIFAへのあてもなくまた依頼する内容も分からなかった。

 ある日、ケンがFIFAへ手紙を送ってくれた。FIFA会長のブラッター氏宛にである。その後、数週間しても何もケンが言って来なかったので恐らく駄目だったのだろうと思い藤野達も敢えてケンへFIFAの事を確認しようとしなかった。その後、特にFIFAにあたろうとも思わなかった。7月、アフガンプロジェクトが終わってからの事だった。藤野が帰国してケンに会った際にケンは藤野に「おめでとう」と言い、次に「申し訳ない」といった。「良太、ごめんね。実はFIFAからあの後すぐに返事を貰っていたみたいなんだ。どうやらアフガンプロジェクトへの後援Okだって。うっかり気づかなかったんだけど、もう遅いよね?」こうしたちょっとお茶目な協力者が藤野は好きだった。

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