頑張る人の物語

藤野良太

『藤野良太との出会い』4/5編

■『1つのボールが教えてくれた』

話を前に戻す。5月になると、全てが上手く回り始めていた。6月に再度アフガニスタン入りをして、現地にパラボナアンテナとサッカーボールを届けてくる。そして、実際にサッカー大会を開催してくるのだ。そのための準備は着々と進みつつあった。メンバーも今では30人を超えるまでになった。皆がそれぞれの役割を果たしており、藤野はその進捗を確認すればいいだけになった。当初は収集に苦戦をしていたサッカーボールも集まりつつあった。はじめのうちは全く送られてこなくて、初めて提供してくれた人には皆でお礼の手紙を書いた程だった。今では週に60個位のボールが送られてきた。アフガニスタンに送る数は600個だ。他の地域へ送るためには全部で 2002 個必要だが、アフガニスタン用はもう揃ったという事で丁度発送作業を終えた時だった。

一つのボールが手紙と共に送られてきた。
そのボールを見た瞬間、「ああ、あの子だ」と藤野は気づいた。伊藤由江という当時中学3年生の女性からの手紙だった。当時、北海道庄内にある中学に通っていた伊藤はある時、新聞記事でアフガンプロジェクトの事を知る。それは4月22日、鈴木がアフガニスタンに飛び立った事を紹介した北海道新聞の記事だった。この記事を読んだという人から、その日10件以上の電話が藤野の方にかかってきた。夜遅く、伊藤は藤野に電話をした。「はい、もしもし」藤野が答えた。「・・・・」「あれ?もしもし」

前述したように、当時は励ましの電話以外にも批判電話も多かった。もしかしたらいたずら電話かもしれないと思い、切ろうとした時に電話越しで伊藤が声をあげた。「あの、、、藤野良太さんですか?今朝新聞をみて、アフガニスタンにボールを送ろうとしていると知って、感動しました」普通はこの後、『頑張ってください』とか『ボールをあげます』という会話になるが、伊藤は違った。「私の話をしていいですか?」驚きつつ、藤野は承諾した。

「私は中学 3 年生の女生徒です。稚内の北の庄内の中学校に通っています。サッカーが大好きで中学入ったらサッカー部のマネージャーをやろうと思っていたんですよ。でもうちの学校って全校生徒が 20 数人しかいなくてサッカー部も無いし、サッカーの話できる友達もいないんですよ」その後はサッカーの話をした。藤野自身がサッカーを好きな事、アフガニスタンの人達もサッカーが好きな事などを話した。
藤野は伊藤に一つの約束をした。絶対にサッカーボールを届けると。伊藤は藤野に二つの約束をした。一つはサッカーボールを何とかして藤野の下に送ること。そしてもう一つは高校は第1志望の高校に入ってサッカー部のマネージャーになることだった。5月の上旬の今、一つ目の約束が藤野の下に手紙と共に届けられたのだ(また、翌年春に伊藤はもう一つの約束も無事に果たすことになる)。手紙自体は伊藤の担任からのものだった。『はじめまして。お元気で活躍のことと思います。』手紙はこう始まった。

『学校の方で、新聞を読み考えていくという活動をしているのですが、電話やメールで以前やりとりをしていただいた、伊藤由江さんが「アフガン・プロジェクト2002クラブ」の新聞を題材にしていました。“戦争で悲しみの中にいる子供達に、少しでも元気を与えてあげたい”という由江さんの思いや、感動した私の気持ちを伝えた結果、クラスでボール1つを買うことができました。私のクラスは 7 人しかいないのですが、少ないおこづかいから1000円も募金してくれる生徒がいたり、子供達の優しさに私もふれることができて嬉しく思いました(以下略)。』こう手紙には書かれていた。どうやら、伊藤のクラスでは新聞記事を読んで発表するという授業があるらしい。その授業でアフガンプロジェクトの事をプレゼンしてくれたようだ。そして、皆を説得してくれたとのことだった。藤野はこの事に感動した。そして、自分の最近の考え方に対して反省をした。

前述のように5月になると、多くのメディアがアフガンプロジェクトの事を報じ、多くの人が協力をしてくれた。お金も集まってきたし、サッカーボールも集まってきた。次第に藤野自身がボールにしろ数勘定しかしなくなっていたのだ。しかし、この手紙で再度原点に戻ることができた。「何を勘違いしていたんだ。ここまで出来たのは自分の力じゃない。周りの助けがあったからじゃないか」伊藤達が送ってきたサッカーボールには一人一人の名前が書かれていた。恐らく、他のサッカーボールにも一つ一つに思いが込められていたのだろう。寄付金についても、わざわざ銀行に行って振込みをしてくれた人がいるわけで、 360万円という金額ではなくそれをくれた一人一人の思いこそが大事なのではないか。メンバーにしてもそうで、一緒になってやってくれている。この事は非常に素晴らしいことで、自分一人では決してできなかったことだ。

藤野は思い直された。そして、この伊藤からもらったボールだけは自分の手で現地に持っていこうと決めた。

■『アフガニスタンへの道』

 出発の日は決まった。6月11日だ。この日は藤野の誕生日だった。元々、パキスタンからアフガニスタンに入ろうとしていたが、パキスタン情勢が緊張したためにこのルートが直前になった使えなくなった。
出発間際になり、デュバイからアフガニスタンへの直行便が出ている事が分かり、とりあえずデュバイまでのチケットを確保して日本を離れた。デュバイからアフガニスタンへのチケットは持っていない。本当に行けるのかさえも分からない。ただ、道は限られていたので藤野達はこの選択肢にかけることにした。アフガニスタンへ向かったのはアフガンプロジェクトの中で藤野良太、鈴木基芳、買手屋有一、湯川伸矢の 4 人だった。後から遅れてパラボナアンテナ設置のために 中村三昌 も加わったが、この4人がまずは現地へ向かった。4人はデュバイに着くと、アフガニスタンへのチケットを探した。聞き込みを重ねる内にシャルジャー空港にあるかもしれないという事を聞いた。

 湿気と熱気が凄かった。シャルジャーで聞き込みを続けると、ある人が「あそこの施設でチケットを売っている」とはるか遠くを指差しながら教えてくれた。歩いていくと 30 分位以上かかりそうな道の先に小さく建物が見えた。外は暑い。藤野達4人はジャンケンをして負けた二人が施設に行く事になった。ジャンケンの結果、藤野と鈴木が負けた暑い中、ゆっくりと遠くに見える施設へと歩いていった。アフガニスタンへの飛行機チケットはそこにあった。急いで帰って他の二人に知らせ、また4人でその施設に向かった。今度は嬉しさがこみ上げてきて、誰が早く着けるか競争しながら施設へと向かった。 5 日後のフライトとのことだった。5日間、シャルシャーにて滞在をした後で藤野達は空港に向かった。空港でチケットを見せると、係員が“Stop!”と言い、藤野達を制した。アフガニスタンは危険だから、藤野達を入れる訳には行かないというのだ。藤野達は通してくれと頼んだが、係員はダメだと首を横に振った。ここで諦めては今までの努力が全て無に帰ってしまう。藤野達は自分達の思い、活動内容を必死になって係員に説明した。また、今までアフガンプロジェクトが紹介された海外の記事もみせながら話をした。30分が過ぎた。

 係員は“ Take care ”そう小さく言い、藤野達を通してくれた。アフガニスタンへの道が開けたのだ。4人は待合所で便が出るのを待っていた。同じ待合所にはアフガニスタンの人と思われる青年が一人座っていた。15分位すると空港の案内係が呼びに来た。車で少しすると、目の前にとても空を飛べるとは思えない飛行機が見えてきた。どうやらこれがアフガニスタンへ藤野達を連れていく飛行機のようだった。
飛行機の中に入ると、機内は人だらけだった。既に皆は入っていたのである。どうやら皆アフガニスタンの人達であるようだった。藤野達を見ると、ある青年が『ジャポネ!』と叫んだ。その瞬間、機内中の皆が歓声をあげ、口笛を鳴らし、拍手が起こった。みんな、日本人の事が好きなようであり、憧れていたようだ。藤野達の席は一番前であった。席に行く途中、皆が手を合わせたがった。パンパンっと機内にいるアフガニスタンの人達と手を叩き合いながら藤野達は席へと向かった。

 予想を裏切り、飛行機は空を無事に飛んでいた。30分後、アラブ海を越えると窓から見える景色が変わった。窓の下にはアフガニスタンがあったのだ。藤野の心は躍った。写真にみてきたアフガニスタンの光景が今、目の前にある。マスードが生きていた場所、アメリカ軍が戦っていた場所、今までの苦労も含めて様々なものが藤野の頭をよぎった。「ここで半分、あと半分がんばろう!!」藤野はそう考えていた。

■『アフガニスタン入国!!』

 空港につくと、機内が歓声につつまれた。同じ機に乗っていた人達は皆帰郷を喜んでいた。藤野達も何度も頭に思い描いていた場所に降り立つことができて非常に嬉しかった。飛行機からおりると、外にはヘリコプターの残骸があり、被弾した地面がそのまま残っていた。空港もとても想像出来ない位荒れ果てており、砲撃の後がまだ修復されていなかった。いざ、アフガニスタンに入ろうと税関を通ろうとした時、『ビザは?』と止められた。ビザが無いと入れないというのだ。実際に日本でアフガニスタンへ入るビザを取るのは不可能だった。また、現地に行ってからどうにかなると聞いていたので、これにはさすがに困った。ここまで来て、入れないなんてと途方にくれていた際に、ある人が声をかけてきた。「良太君」それは、長倉洋海だった。長倉は既にアフガニスタン入りをして彼の取材を行っていた。藤野達が到着する頃だと思い、空港に迎えにきていたのだ。 4 月に電話などでやりとりをしたローズべも一緒だった。長倉とローズベが空港担当者に話をつけてくれ、 4 人は無事にアフガニスタン入りをすることができた。藤野と長倉は手を握り合った。そして、藤野とローズベはお互いを堅く抱きしめあった。“Nice to see you”

 今まで、電話やメールでやりとりをしていたので初めてとは思えなかったが実際に二人が会ったのはこの時が初めてだった。ローズベと藤野はこの後、無二の親友になりその親交は今でも続いている。二人はお互いをじっと見詰め合った。空港からは車で移動をした。現地に住むシュライブが運転手を務めてくれた。バンの中ではテクノが流れていて、少し藤野達は驚かされたがアフガニスタンへ入った時の緊張感と実際に初めて会うアフガニスタンの人達と同じ空間に居合わせる事で何を話せばいいのかが分からなかった。ローズベが場を盛り上げてくれた。少しお茶目な彼は冗談を言ったり、日本の事を聞いてきたりとその場が打ち解けるのに一役買ってくれたのだ。このおかげで、藤野達もコミュニケーションがスムーズに図れるようになった。初日は忙しかった。外務省や各省庁を回った。カブール市内に入った時は街の様子に驚かされた。ものすごく発達していたのだ。高いビルはあるし、タクシーやバスも走っている。藤野が住んでいる所よりも都会だった。ボロボロで砂埃が舞うような所をイメージしていたし、テレビではそのような場面が報道されていた。しかし、実際には全く違う情景が入ってきたのだ。「見たらビックリするよ」

 準備段階で入国した鈴木が電話越しに言っていたことを思い出した。確かにこれは衝撃的だった。初日はこの他、ボールや機材を保管してくれていたNGOのJENの現地事務所を訪れたり、今まで現地とのやりとりを協力してくれた現地記者の安井に会いに行ったりとあわただしかった。アフガニスタンには街灯が無い。夜は暗かった。月が綺麗で思わず見とれてしまった。実はこの日、アフガニスタンには衛星の電波が届いておらず、W杯の生放送が出来ないのではないかという話を聞いた。「何が待っているのだろう」
 
藤野は期待と不安に包まれていた。

■『パラボナアンテナと親友の涙』

 翌日から準備が始まった。W杯放映プロジェクト、サッカーボールを届けること、サッカー大会の開催のための準備だ。6 月 17 日に現地の電化製品市場に機材の調達に行った。日本の秋葉原のような所だ。様々な機材が売っており、なんとプレイステーションなども売られていた。ここで、テレビとパラボナアンテナを藤野達は購入した。店の人にW杯を放映したいと伝えると、トルコのTR1というチャンネルを経由すれば見られるかもしれないと教えてもらった。すぐに日本にいるメンバーにFAXを送り、この事の確認をとってもらった。すぐに日本からトルコのTR1の番組表が送られてきた。確かにW杯が放映されている。これでW杯が見られるのだ!!場所はカブール市内の市庁舎広場。ここがW杯放映プロジェクトの場所だ。 22 日に最初の放映を開始した。昼過ぎにテレビをつける。チッチという音をたてて、画面に映像が映った。W杯の映像だった。「映った~~~~」藤野達は喚起の声を上げた。

 初日、テレビの前に来たのは 20 人程度だった。皆、淡々とテレビの中の試合をみているだけだった。しかし、この 20 人は実は相当喜んでいたらしい。次の日には 100 人以上の人が集まった。
しかし、カブールは暑かった。藤野達は急遽日よけのためにテントをはることにした。このテント設営には地元の業者が手伝ってくれることになっていたが、彼らは約束の時間に大分遅れてきた。どうやら、アフガニスタンでは時間に縛られない生活、スローな生活が一般的なようだ。大して悪びれるでもなく、彼らはテント設営に協力してくれた。
口コミやカブールラジオで告知がされたこともあって、 300 人以上の人がW杯をみに来るようになった。とてもTV画面だけではおさまらなくなったので、藤野達はプロジェクター投影をすることにした。
6 月 24 日の夜、このプロジェクターを接続してテスト投影を試みた。すると、電圧がショートして機会が全く動かなくなってしまった。みんな、アフガニスタン入りしてから疲れていた。さすがに今回は落ち込んだ。

 鈴木が一人、どこかへと行った。しばらくたっても帰ってこないので、藤野は様子を見に行くことにした。鈴木は外の暗闇の中で一人泣いていた。「どうした?」「いや、あっち行っててくれ」「話してくれよ」「くやしいよ」藤野の問いかけに対して鈴木は涙ながらに答えた。「オレ達は命をかけてまでここまできた。多くの人達の期待を背負ってきた。今まで多くの苦労をしてきた。けど、ここにきてこんな事になるなんて・・・」「そんな事言っても始まらないだろ。こんな所で落ち込むなよ」「あっち行っててくれ」

 藤野の頭で何かが切れた。気がつけば鈴木の胸倉を掴んでいた。実は藤野はアフガニスタンに着てから少し手持ち無沙汰だった。日本では藤野が先頭にたって活動をしていた。しかし、現地では鈴木が先頭にたって活動をしており、他の 2 人のメンバーもそれぞれの役割を持っていた。藤野自身、自分に何かできることはないかともがいていた。自分の役割は何なのか、と考える日が続いていた。こうした自分自身に対するもどかしさと、いつもは『総理大臣になってやる!』と豪語している鈴木が目の前で泣いているのを見たくなかったのだ。「いつもデカイこと言ってんのに、こんな事で泣いてんじゃねえよ。嫌ならもう帰れよ!お前だけが口惜しいんじゃないんだ。オレだって・・・・」泣きながら藤野は言い、それを聞きながら鈴木も泣いていた。「もう一回がんばろう」泣きながら、藤野は笑顔で鈴木にいった。藤野は鈴木を連れて皆がいるところに戻り休んだ。しばらくすると湯川が駆けつけてきた。機械が直ったのだ。

 鈴木は藤野に言った。
「良ちん、AP(アフガンプロジェクト)はみんなで作ってきた。でもこの月の下でこんな経験したのはうちら 4 人だけだよ」この時の事を藤野は忘れられない。達成感があった。満足感があった。体の全ての細胞が解き放たれていく感覚があった。翌日から、多くの人が会場に来た。決勝戦には 2000 人以上の人が詰め掛けた。サッカーの試合を毎日見に来た人もいる。その中の一人の元軍人アッバースさんは藤野に対してこういった。「生中継を見られるなんて夢のよう。感謝したい。戦乱の続いたアフガンではほとんど娯楽も無かった。毎日見に来たい」また、小学生で 11 歳のモーメン君も喜んでくれた。
「とてもうれしい。ありがとう。僕も将来サッカー選手になるよ!!」サッカーを見た事が無い低所得者の人達もいた。彼らが世界を感じることはあまりない。しかし、サッカーの試合の合間に映し出される様々な国のサポーター達。それをみて、彼らは感動していた。サッカーを見れたこと。そして世界の人々を見れたこと。多くの人が藤野達に感謝をしていた。あるお年寄りも藤野達に声をかけてきた。
「タシャコール(ありがとう)。W杯をみるのは 90 年のイタリア大会から 12 年振りだったよ。本当に楽しめた。タシャコール」会場には歓声が長く続いた。その歓声はサッカーの試合にだけ向けられたものではない。藤野達への感謝の声も中にあった。“タシャコール”多くの人がそう口にし、会場にはすばらしい笑顔が溢れかえっていた。

■『サッカーボールを学校へ』

 藤野達はパラボナアンテナ設営以外にもすることがあった。サッカーボールも届けなくてはいけない。当初の予定では、教育省がカブール市内の280の小学校にボールを届けてくれることになっていた。
雑誌AERAで事前に現地入りしていた諸永記者より、子供たちはペットボトルでサッカーをしているという事を聞き、このペットボトルが白いボールに変わったらどれだけ喜ぶのだろうと思って始めた企画だ。アフガンプロジェクトは文字通り、アフガニスタンのためのプロジェクトだった。しかし、企画準備をしているある時、藤野は自問した。「なんでアフがニスタンなのか?」

 たまたま長倉洋海の関係で知り、たまたまメディアで紹介されたのがアフガニスタンだった。しかし、アフガニスタン以外にも困っている子供たちはたくさんいる。そう考えたのだ。それならこのサッカーボールを届けるという企画だけはアフガニスタン以外の国にも届けよう!ということで、企画名を『フレンズボールプロジェクト』と名づけ、 600 個をアフガニスタンに残りのボールを他の国へ送ろうと決めた。サッカーボールが人をつなげてくれれば、藤野はそう願っていた。さて、アフガニスタンでは教育省に頼んでボールをそれぞれの学校に配布してもらおうと思っていたが、ある人から「教育省はボールを売ってしまうかも」という事を聞いた。まだ当時は政権も安定していなかった。可能性は十分にある。 どうしようかと考えた。時間は無かった。自分達で回るには限界もあった。しかし、その時に藤野に伊藤由江の事が頭をよぎった。一人一人が思いを込めて届けてくれたこのボールが売られてしまうのは嫌だった。回ろう、自分で。藤野はそう決めた。

 このため、藤野は鈴木達にW杯放映プロジェクトの方は任せることにした。藤野はローズベと二人で現地の小学校を回ることにした。この事で、藤野はローズベとさらに交友を深めることもできた。実際に回れた学校は 70 校。残りはローズベが責任を持って渡してくれると約束してくれた。ローズベなら信頼できる。藤野は安心して残りを託した。小学校を 1 校づつまわり、一つ一つボールを渡していった。それぞれのボールには送ってくれた人からのメッセージが書かれていた。もちろん日本語なので子供たちは読めない。しかし、そこに書いてあるメッセージの意味、そして藤野達の努力に皆は感謝していた。そして、サッカーボールを受け取った事に対して喜びを隠せないでいた。アフガニスタンには学校に通えない子供たちも多くいる。彼らはたばこや水を売って日々を送っている。 1 日に入ってくる収入は 10000 アフガニー、日本円にしてわずか 30 円しかない。サッカーボールの値段が 11 ドル。日本円にして 1300 ~ 1400 円。現地の値段にして 40 万アフガニ以上する。とても彼らに買う余裕は無い。藤野達は事前に道端ではボールなどをあげない事を決めていた。人だかりができて大変な事になると思ったからだ。命の危険も十分にあったのだ。小学校を回っている中で、ある少年が車を叩いた。藤野達に新聞を売りにきたのだ。

 少年は車の中のボールをジーっとみていた。他の子は「ちょうだい、ちょうだい」と騒ぐが、この子は何もいわずにジーっとみているだけであった。藤野はしばらく考え、この子にボールを一つあげた。
少年は喜んで走り去っていった。しかし、 5 分後にまた走って戻ってきた。「はい、これお返しに」おそらくこう言ったのだろう。少年は藤野に新聞を差し出した。彼が売っていたものである。もちろん、新聞の内容を読む事はできないが藤野はありがたく受け取った。子供は満足そうな顔をしていた。藤野達が配ったボールには一つ一つメッセージが書かれていた。『いつか一緒にサッカーをしよう』『めざせW杯!』そのようなメッセージだ。そうしたメッセージを見ながら、藤野は決意した。日本に帰ったらこのボールを送ってくれた人に対してお礼をしにいこう、と。

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