頑張る人の物語

船橋力

『 船橋力との出会い 』2/5編

■自らの“宿命”

 それから中学を卒業するまで、普通の学校生活を船橋は日本で過ごす。特に変わったことは無かった。アルゼンチン時代に認められた野球を続け活躍をし、授業などでも常に思ったことは言うタイプではあったが、際立って他の友達と違っていたかというとそうでもない。

敢えて言うとすれば、家庭では厳しい父親がいて常に『倫理観と自立』を訴えて、はるばる遠くまで牛乳を買いに行かされるという生活をすることが周りの友達との違いといえば違いだった。父は常に厳しかった。高校受験の時もその厳しさは同じだった。受験の「滑り止め」という発想は父親には通じなかった。

 「高校なんて明確な目的が無いなら行くんじゃない。第1志望であれば行ってもいいが、それ以外の高校は受かったとしても学費は払わん!」 高校に行くなと言いたかった訳ではない。行くのなら、それ相応の目的を船橋が明確にしておけということを父親は言いたかったのだろう。無目的に人生を生きるなということを伝えたかったのだろう。

 だが、このような緊張感の中で船橋は無事に第1志望の高校に入ることができた。正直な話、船橋は高校に受かる自信があった。子供の頃からずっと船橋は常に自分で意思決定をする癖が付いていた。おそらく、他の学生よりも辛い環境に自らが置かれているのだろうということは分かっていた。そして、それを乗り切ってきているのだから自分はやろうと思ったらとことんやることができる。そう確信していた。

 こうして、第1志望の高校に入った船橋はまた野球部に入った。当時の船橋に将来の夢はと尋ねたら、「野球選手になりたい!」という答えがおそらく返ってきただろう。それ位、野球が好きだった。そして、そんな船橋は行きたかった高校に入ることができ、好きな野球をすることができ、楽しい高校生活が待っているはずだった。しかし、その船橋の期待は高校1年の4月の終わり、父親の一言で早くも裏切られることとなった。

 「ブラジルに行く事になった。ついてくるかどうかはお前が決めろ」当時、長女と長男にあたる姉と兄は社会人として働いていた。もう一人の姉は既に大学に入っており、実際に選択を迫られたのは船橋だけになっていた。「ついてくるかどうかはお前が決めろ」という父の言葉には言外に含まれている意味があった。

 「ちなみに、日本に残った場合は全部自分でやっていくんだぞ」 野球をやりながら、家事周りをすることは不可能だと当時の船橋は感じていた。そして、そうした理由だけでなく、船橋にはピンと来ていたものがあった。

 「小さい頃から海外にいた。自分は日本を出るべき人間なんじゃないか。今自分がブラジルに行く事は一つの“宿命”なんじゃないか」漠然とそのようなことを船橋は考えていた。そして、数日後父親にブラジルへついて行くことを伝えていた。

■様々な価値観に囲まれて

 第1志望の高校に別れを告げ、船橋が通うことになった高校は高校受験の際に『滑り止め』としても想定していなかったブラジルの現地学校だった。幼少時代にアルゼンチンに住んでいたとはいえ、その時はスペイン語であったし当時のことはすっかり忘れていた。語学にも不安があったし、環境の変化にも不安があった。

 実際にブラジルの現地学校では英語が出来ないからといって妥協は一切なかった。英語で他の生徒には既知であるアメリカ史などをやられた日には参ってしまっていた。船橋は生まれて初めてノイローゼにかかりそうになっていた。しかし、そんな船橋をスポーツが救った。野球が上手いこと、これが周りに船橋を認めさせた。これは、アルゼンチンでも起きたことだった。何か一つでも才能があると、そこを認める文化。それがブラジルにもあった。野球を通じて船橋は周りから支持を集め、日本語が学校全体でブームになることもあった。

 “ kanji is cool !! (漢字っていかすな) “ 船橋だけでなく、この学校に通う日本人全体の株が上がった瞬間だった。

 この現地学校には実に様々な国から学生が集まっていた。1学年300人いる中で40カ国以上の生徒が参加していた。アメリカ人が40%、ブラジル人が35%、そして残りの25%を他の国の人達が占めていた。様々な価値観がそこにはあった。地元からすると高い学費なのでブラジル人で通学しているのはよっぽど裕福な家庭の子供だった。誕生日に馬を買ってもらったり、ヘリコプターで送り迎えをしてもらったりする友達もいれば、飛び級をしてくる天才少年も同じクラスにいた。

 様々な個性がそこにはあり、一つでも長所があればそれが認められた。皆が違うことを当たり前と思っており、差異を受け入れていた。こうした環境の中で船橋は育っていった。

■貧しさの中の幸せ

 だが、船橋が育ったのはこうした環境の中だけではなかった。この学校に通っている生徒達は多くが裕福な家庭を持っていた。確かに様々な価値観は存在している。しかし、それは社会の数%しかいない富裕層に限定されていた。当然にして、船橋の父は息子にそのような環境だけを見て欲しくなかった。父はよく息子をスラムに連れていった。そして、スラムの人達との交流を積極的に行わせた。スラムとは現地の貧困層が居住している地域である。よく日本の社会の教科書では貧しくて治安の悪い地域として紹介をされている。

「何だ、楽しそうじゃん」実際に船橋が見たスラムは様々な顔を持っていた。汚いスラムもあったが、綺麗なスラムもあった。また、船橋が意外だったのは貧しい生活をしている彼らが決して不幸ではないということに気づいたことだった。スラムの人達にも最低限の衣食住は存在していた。そして、サッカーなどの遊びもあった。また、カーニバルのためにスラムの人達もお金を貯め、カーニバル期間中は蓄えたお金をふんだんに使い踊りまくる。そういう光景も見られた。

 彼らには彼らなりの幸せというものがあり、そこには決して貧しいからといって不幸せという理論が通用しないものがあった。貧しいことも一つの個性であり、だから経済的に豊かにしていけばいいというのは多少論理の飛躍があることに船橋は気づいた。もちろん、人には自らに無いものを求める傾向がある。貧しい人が必ずしも経済的豊かさを求めないかといえばそういう訳ではないかもしれない。でも、貧しい中にも幸せは存在し、そういう人達に経済的豊かさを与えていったとしてもそれ以上に幸せになれるかは保証が無いのではないか。こういうことを船橋は考えるようになっていった。こうしてブラジルで高校生活を過ごした船橋は、父親の仕事に区切りがついたこともあり日本の大学に受験をすることとなる。しかし、ここでも父親の態度は一貫していた。第1志望でないと学費を出さない。受験費用さえも出さない。そういう父親だった。

 第1志望が東京大学であった船橋だが、合格した大学は上智大学と京都大学だった。いずれもレベルが高い大学であったが、船橋の父は断固として学費を払わない事を貫き通した。 京都大学に入学した場合、学費を払ってさらに一人暮らしをすることは恐らく不可能と思ったので、船橋は自宅から通える上智大学に通うことにした。大学入学後はアメフト部に入ることになったが、週のほとんどを部活にあてながらも学費を払うために船橋はバイトをするという生活を過ごすことになった。

■日本で感じた違和感

 こうして、授業と部活とバイトという普通の日本の大学生活を過ごすことになった船橋だが、ある種の違和感を常に覚えていた。その違和感は周りの友達に対して向けられていたものだった。

 ブラジルでは、多くの友達が自分の夢を語っていた。政治の話や文化の話を皆がしていた。そして、そういう真面目な話をしたかと思えば恋愛の話やいやらしい話などをしていた。一人の人間が多くの考え方や視点を持っていたのだ。しかし、多くの日本の友達が違った。夢を語る人はいなかった。真剣になって政治の話をする人はいなかった。仮にいたとしてもそうした人達はその話しかしない。ふざけた人はふざけた話しかしない。真面目な人は真面目な話しかしない。

 最初はただみんながシャイなだけかと思った。自分の考えを話したがらないだけなのかなと思っていた。しかし、数ヶ月すると船橋は気がついた。ただ、『知らない』だけなのではないか。色々な考え方や価値観があることを知らないだけなのではないか。知っていたとしてもそれは自分とは相容れない考え方や価値観としての意識で知っているだけであり、本当に深く理解できていないのではないか。この時に生じた問題意識、それが今の船橋の問題意識のベースとなっている。しかし、当時の船橋はまだ一人の大学生だった。問題意識は覚えても、それを解決するための行動には至らなかった。

それは、学費を払うためにバイトをする必要があったからだけではない。部活で忙しかったからだけではない。船橋自身がまだこの問題意識を完全に自分の意見として整理ができておらず、自分の言葉で語ることができなかったのだ。

■自分自身への不満

 実はこのとき、船橋は自分自身に対しても不満を感じていた。それは、自分が『造られている』という意識から生じたものだった。

大学受験の時までもずっと、船橋は父親に疑問を抱き続けていた。確かに父親は自ら言っていることは守るし、言っていることは正しい。しかし、そんな父親に船橋は抵抗したかった。強く抵抗しようと思っていた。だが、船橋が人と接する時、常に父親みたいな言動を取っている自分に気がついていた。

 「人にはもっと優しく接するべきだ」「もっとこう生きた方がいいんじゃないの?」父親に反抗しているくせに、無意識の内に父親のように正論を語ってしまっている自分がいることに気がついていた。船橋は自分が確立していないという事に焦りを感じていた。自分自身が確立していないことは大学の授業の時間においても気づかされた。船橋は大学で「人間学」という講義を受けていた。講義の課題で『善とは?』というテーマについて論文を書くことが課せられ、この課題で優良者が3人選ばれた。船橋の答案もその優良賞に選ばれた。

 船橋は、善が存在することの意義やその魅力について延々と述べた論文を書いた。先生からの評価は非常に高く、船橋自らも満足をしていた。しかし、次に紹介されたもう一つの優良者の論文は意外なものだった。

 「善なんていうものは存在しない」 そういう書き出しの論文であり、船橋とは全く逆のことを書いていた。内容としては確かに練られており素晴らしいものだった。自分とは全く異なる価値観がそこにはあり、そのことに船橋は心の底から驚いた。子供の頃から様々な価値観と触れてきた自分、しかしそうした自分もまだ少しの価値観としか触れてきていなかった。今までは自分の考えを主張すれば多くの人が共感をしてくれていた。しかし、今自分の耳に入ってきた意見は全く正反対の意見であり、価値観だった。

 周りの知人に対しても問題意識を覚えていたが、それ以上に船橋は自らに対する問題意識を感じていた。そしてそれは造られた自分という意識に大きな拍車をかけた。船橋は悩んでいた。しかし、問題は分かってもそれをどう解決をしていけばよいのかが当時の船橋には分からなかった。そして、大学時代の船橋はバイトと部活をすることで考えることから自らを回避することができていた。

 そのような船橋がその答えを得るきっかけは、答えのヒントが生じたためではなく、反対にその問題意識がさらに深刻なものとなったことがきっかけだった。そのきっかけとは失恋だった。今まで付き合ってきた彼女に大学4年生の9月に船橋は振られた。

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