頑張る人の物語

中野信治

『中野信治との出会い』3/5編

■日本での挫折

 話が少しそれたが、こうした中野の意識はこのイギリス滞在中にほとんどが養われた。そして、2年後に再び中野は日本にてレースをすることとなった。

 92年に日本に帰国すると、中野は全日本F3000選手権と全日本F3選手権にダブルエントリーをする。2つの大きなレースにダブルエントリーというのは無謀なことだ。レースは体力的にも精神的にも過酷なものだ。これを1度に2つ行うのは正直な話、考えられない。しかし、これは中野のことを評価していた周囲関係者の意向だった。英国で好成績を残してきた中野に対する期待は高かった。しかし、ダブルエントリーという事だけでなく、この時中野に対して提供されたマシンは操縦性が決していい物とは言えなかった。そして、この事をチームの人達に伝えても、もともと期待が高かったせいか言い訳ととられ、勝てないのは「中野に力が無いからだ」と言われるようになってしまう。

  そして、勝ちたいと思う気持ちと、結果に結びつかないジレンマの中で中野は何とドライバーとしてのシートを無くすこととなってしまう。シートが無くなるということは、会社を辞めさせられることと同じことだ。今まで日本そして海外でトップレーサーとして走ってきた中野はいきなり下まで突き落とされた。この時点で一時はレーシングドライバーとして今後もやっていくべきかという事を中野は悩んだ。しかし、答えはすぐに決まった。「やるしかない!!」

 丁度、他のチームがドライバーオーディションをするということを聞いたので中野は自らオーディションに参加した。それまで敷かれたレースの上を順調に走ってきた中野にとって、それは初めての経験だった。 そのテスト走行で中野は驚異的な記録を出した。そのチームのメカニック達は皆、中野の実力を心の底から評価し、その実力を認めた。しかし、このオーディションにより中野信治の実力を確認できたのは、ほかでも無い中野自身だった。 「やはり自分には出来る」

 多少、先年のレース成績に不満を感じており、レーシングドライバーとして自分の能力を考えたこともあった。しかし、今回の走行でいい成績が残せたことは中野にとって大きな自信になった。実際にこの時に参戦したほとんどのレースで中野は表彰台に乗ることができるようになった。こうした中野の実力が認められ、チームでは童夢、スポンサーではAVEXとの新しい出会いもあり、チーム、スポンサー共に今までの中では最高の布陣が整いつつあった。ここで一つ、偶然に偶然が重なった。この年起きた阪神大震災の影響で、童夢が利用していた大手タイヤメーカーの工場が機能しなくなり、最初考えていたマシンやドライバーの体制を変更する必要が出てきた。

  最初、中野のシートは童夢チームになかったが、株式会社無限の本田博俊社長の後押しと新しいスポンサーとの偶然の出会いがあり、シートを急遽確保できるようになった。チームがあり、スポンサーがいても試合に出られるとは限らないのだが、体制の変更が中野にとって有利に働いたのだ。もちろん、多くの死傷者が出た震災がきっかけとなって道が開かれる形となった事を中野は素直に喜ぶ事は出来なかった。だが、中野はこの時強く思った。「チャンスっていうのはいつ来るか分からない。大切なのは諦めないこと。信じること。そして誰よりも努力を続けること。」

中野がこの参戦の報告を受けたのは、いつかマシンに乗れる事を信じてトレーニングを続けていたジムでだった。何があっても諦めてはだめだ。また、今回はたまたま自分にとってはチャンスとなったが、今後いつでも逆の状況だって想定される。そうした時に備えて常に自らをコントロールし、高い意識を平常時から持っておかなくてはならないとさらに中野は意識を強くした。

■F1デビュー

 こうした状況の中で、中野は好成績をおさめていった。1位にこそはなれなかったが、常に僅差で2位にはつけていた。勝てそうで勝てなかった。だが、この当時「日本でやったら絶対に勝てる」という自信が徐々に芽生えていった。次の年もやったら全部勝つことだってできる。このように考えられるようになっていた。

 もちろん、中野は自信過剰になった訳ではない。彼には徐々に分かってきた。レースでの勝ち方が。サーキット場のコースを頭の中で思い浮かべ、何周したらエンジンが何キロ分軽くなるから、カーブは何メートル前で曲がり始める・・・と細かいレースのシミュレーションが常にできるようになっていた。知り尽くしたサーキット場、そして知り尽くした競合。過信ではなく実力として中野は勝利を信じていた。そして、思っていた。「やはり世界で戦いたい」と。

 丁度この時、F1に参戦しないかという話が来た。オーディションテストにおいても素晴らしい記録で走りきり、語学力もイギリス時代の経験が活き、難なくクリアした。F1へ参戦する事が決まり、さらにプロストのチームに属することに決まった。

 プロスト、レース好きの多くの人が知っている名前だ。フランス人のプロストは当時のワールドチャンピオンその人だ。レーシングドライバーとしては引退をし、自らチームを持ってその運営にあたっていた。株式会社無限がエンジンを提供し、ホンダがマシンを提供するといった形で「プロスト無限ホンダ」というチーム名で中野はF1デビューをすることとなった。

■プロストの試練

 プロストのもとで修行ができる。中野は期待をしていた。他の関係者からも羨ましがられた。しかし、その期待はすぐに裏切られた。

 プロストはレーシングドライバーとして確かに一流だった。それはもちろんドライビングテクニックだけでなく、精神面、チームとのコミュニケーション全てを含めての事だ。特にプロストにあったものはハングリー精神だった。 そして、これは世界トップレベルのレーシングドライバーが皆共通して持っているものだった。勝つためなら何でもやる。いい意味でも悪い意味でもこれが徹底されていた。プロストのチームはメカニックなど全てフランス人だった。フランス人であった彼は何よりもフランス色の濃いチームを作ることに固執した。はるか東方の日本から一人やって来た中野にとっては決して戦いやすい環境とは言いがたかった。ミーティングは殆どがフランス語で行われた。

  もちろん皆、英語が話せない訳ではない。中野が意味を把握していないことを確認しつつ、フランス語で大事な話を進めていくこともあった。また、最初中野に付いていた優秀なエンジニアもこのエンジニアが優れている事が解ると、いつの間にかチームメートのエンジニアに取って代わっていた。仲間であるチームもここでは敵に回ってしまっている。周りの人に言っても、そんなことは信じてくれなかった。日本にいた時から中野を知る人は皆が中野の大抜擢を褒め称えたが、当の中野にとっては、本当に苦しい時期だったのも確かだった。
 
  ギリギリの状況になり、父親にも相談をしようかとは思った。しかし、中野はそれを自ら否定した。父親には迷惑をかけたくない。この段階で既に中野はレーシングドライバーとしては父を超えていた。恐らく、父も中野を誇りに思っていただろう。まさか息子がF1の選手に選ばれるなんて思わなかっただろうし、ましてやあのプロストのチームにドライバーとして参戦しているとは思ってもいなかっただろう。そんな父に今の状態を伝えることは父の夢をも傷つけることだった。自分で変えていくしかない。中野はそう決意した。

■全てを自分のせいにする

 『勝つためには何が必要か』

 ここでも中野は強く考えた。全てを味方につけなくてはいけない。スピードだけでなく、言語もできるようになりチームも味方につけなくてはいけない。体力もつけなくてはいけないし、食事にも気を遣わなくてはいけない。そしてメンタリティも常に維持しなくてはならない。そして、一番大事なこととして「全てを自分のせいにすること」を心がけた。メカニックが抜かれたから勝てなかった、言葉が話せなかったからできなかったではいけない。全てを自分のせいにする。言葉が話せないのは自分が悪い。なら勉強をすればいいだけだ。メカニックが抜かれたのも自分が悪い。ならもっとメカニックとの信頼関係を構築していけばいい。

  中野は勝つという目的を実現させるために生じている課題を全てまずは自らの責任に課し、一つ一つその解決策を考えていった。先にも述べたがレーシングドライバーが勝利するためには才能があるだけでは不十分だ。ある意味、世界レベルのレースになると才能がある者が集まってくる。彼らは皆、それぞれの国で天才と言われる人達を倒して参戦してきているのであり、才能などは既に持ち合わせている。それに加えて、チームとのコミュニケーションであったりと様々な要素が重要になって来る。特にこのF1に参戦したことで、中野はメカニック、監督などからなるチームとのコミュニケーションの重要性をさらに意識するようになり、努力して優秀な人材を獲得していこうと思うようになる。

 結果、世界中から集まる強豪を相手にして、中野は6位を2回と好成績をおさめることができた。もちろん、優勝できなかったことへのくやしさは残るが、初のF1で2度の入賞という結果は讃えられるべきものでありその結果が出るには中野のあらゆる面に渡っての努力があった。翌年、中野はイタリアの名門ミナルディーチームに移籍をした。フランス、プロストの経験を活かし、ここでもすぐにイタリア語を勉強したがこのミナルディーチーム、そしてイタリアは中野にとって非常に快適な環境であった。街も人も食事も気候も、全てが中野に合っていた。

■CARTへの転向

 こうした環境の中で中野はF1参戦を続けるが、世界1になることは出来なかった。トレーニングにトレーニングを重ねる日々を過ごしていた際、ホンダの方からCARTの選手にならないかという提案を受けた。

 日本のカート(KART)とは違い、カートというとよくゴーカートと混同されるが両者は全くの別物である。CARTはアメリカモータースポーツの中では最も大きい競技であった。CARTはアメリカンモータースポーツの最高峰に位置付けられ、ヨーロッパのF1と並ぶ世界トップレベルのシリーズである。 現在F1で活躍しているファン・パブロ・モントーヤもCARTの出身であり、またF1からもCARTにドライバーが移ることもあり、ドライバーにとってCARTは憧れのシリーズだった。

 もちろん、F1での世界1を達成したいという思いは中野に強く残ったが、一方、新天地アメリカで最高峰のシリーズに挑戦するというのも大きな魅力だった。また、CARTはオーバルコースを主体とするシリーズだが、このサーキット環境は自らの原点でもあった。「世界1の夢はCARTで果たす」中野はそう考えて、F1からCARTへと転向をした。

 中野はそのCARTで初戦8位というルーキー至上最高の成績でデビューを飾った。チームそして周りの関係者の多くが中野の実力を認めて、CARTの期待の星と言われるようになった。

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