頑張る人の物語

中野信治

『中野信治との出会い』1/5編

中野信治(なかのしんじ)
レーシングドライバー
国際カートGPで日本人初優勝・大会最年少記録に輝く。日本人では数少ないF1フル参戦デビューも果たし、CARTにおいても日本人史上最高位となる4位獲得。事実上の日本におけるトップレーシングドライバー。
http://www.c-shinji.com

■レーシングドライバー中野信治

一周2.5マイルのサーキットを時速400キロを超えるスピードでマシンが走り抜ける。スタンドから観戦をすればもちろんだが、テレビ画面を通じて観戦をしているだけでもそのスピード感は伝わってくる。 レーシングドライバーは必死だ。レースによっては休憩無しで2時間半以上も走り続ける。スピードが出ているから気持ちいいかといえばそんなことは全く無い。

  レース中、マシンのコックピットの中はは50℃程まで上がる。喉が渇き給水をしようにも車内のマシンの中に詰まれた350mlのドリンクボトルは既にお湯のような熱さになってしまっている。息が切れ、意識も少し朦朧としてくる。心拍数は170を常時超え、その運動量、緊張感たるや想像を絶するものがある。その運動量はフルマラソン42.195キロ分に匹敵するという。こうした環境下で、常に意識を集中し、次のコーナーそしてゴールまでの道筋を描き続けなくてはいけない。そして、体をそれに合わせていかなくてはならない。走行中に減っていくエンジンの重さ、磨り減っていくタイヤのブレーキの効きの変化、マシンの状態、自らのコンディションなどを全て考えてマシンを操作し続けていく。2時間以上を、である。時速300キロ以上のスピードが常に出ているので、数センチの判断ミスが命を落とす事故にもつながりかねない。このようにレースには危険を伴うが故に「モータースポーツは野蛮なスポーツだ」という意見もあるが、モータースポーツが無ければ今日のような車社会は存在しえなかった。

  もともと、モータースポーツは技術革新のために行われた。究極のコンディションでテスト走行ができる環境、それがサーキット場だった。マシンの精度極限の状態で走り続けるレーシングドライバー、そしてそのマシンを整備するメカニック達。そこに感動があり、ドラマがある。インディとはそうしたモータースポーツの中でも世界トップレベルのレースだ。そして、このインディレースの世界1に現在挑んでいるのが中野信治だ。中野信治はF1、CARTなど様々なモータースポーツにおいて世界のトップカテゴリーで戦い続けてきた。16歳の頃には香港で開催された国際カートGPにおいて日本人初優勝・大会最年少記録に輝いたり、日本人では数人しかいないF1フル参戦などを果たしていたりと日本ではもちろんのこと世界でもトップレベルのレーシングドライバーだ。

 2003年1月。そんな彼が悩んでいた。

■中野信治の悩み

ある日、知人より「中野信治を紹介したい」という連絡を貰った。僕が仲良くさせて頂いている方で世界中の著名なスポーツ選手のマネジメントやメディア展開などをしている人がいる。その人のことを以前話していたのを思い出してか、僕に連絡をくれたようだ。それまでモータースポーツとの接点は無く、中野信治という人も知らなかった。知人より伝えられる成績や人物評は極めて高いものだった。そして、僕が会った中野信治その人はまさに今までの彼の実績や努力が伝わってくる素晴らしい人物だった。2002年末、中野は様々な経緯で結果的にシートを失うことになってしまった。中野が戦う世界のトップカテゴリーでは、そのシートを巡り常に熾烈な戦いが繰り広げられている。そのシリーズが世界の頂点であればある程、シートの数は当然少ない。レーシングドライバーにとっての戦いはサーキットの中だけではない。サーキットの外でも過酷な戦いが繰り広げられているのだ。

 モータースポーツというのは特殊なスポーツだ。スポーツというにはあまりにもお金がかかる代物だけに、モータースポーツビジネスという考え方をする方がしっくりくるかもしれない。トップカテゴリーで年間を通して戦うには1台につき6億円~8億円近くの費用がかかる一方、賞金もまた桁外れだ。動くお金が巨額なだけに、そこには様々な種類の人間が群がってくる。それらの人々のそれぞれの思惑がからみあい、ドライバーが選定される。実力があればシートが与えられるというような簡単な世界ではないのがモータースポーツの世界だ。しかも驚くべきことに、実際僕があるレース関係者から聞いた話では、シートを失った中野がスポンサー探しやメディア露出をしようとする際にも、それを妨害する様々な圧力がかけられているという。

 中野にとってレースは人生の全てだった。そして、このレースを彼から奪おうとすることは彼の人生を全て否定することと同じだった。中野の人生、それはまさしくレースに生きる人生であり、事実、中野信治という人間はレースを通じて作り上げられてきた。普段、サーキット場の上では中野は0.1秒でも速く前へ走ることを目指している。しかし、ここはサーキット場ではない。少し中野の人生を逆走し、彼の人生を振り返ってみたい。

■モータースポーツとの出会い

 中野が本格的にレースを始めたのは11歳の頃だった。しかし、サーキット場にはその大分前から中野信治の姿があった。

 中野の父、常治はレーシングドライバーだった。二十歳過ぎの時にたまたまレース関係の雑誌を見た常治はすぐにレースの魅力に取り込まれた。モータースポーツにはマシン代やエンジン代など多くの費用がかかる。常治は内装工事をしながら、資金をためてレースへと参戦をしていた。そのような父に付き従って、中野信治は子供の頃からよくサーキット場へ行っていた。しかし、子供の頃から中野信治がレーシングドライバーになりたかった訳ではなかった。 もちろん、サーキット場に行ってはレースが面白そうだとは思っていたし、父の背中を見てはかっこいいなとは思っていた。だが、それはあくまで見る対象であり自分が参加するものにはならなかった。子供時代の中野にトップのレーシングドライバーとして、また、トップアスリートとしての可能性があったかは分からないが、一つだけトップアスリートに欠かせない要素を持っていたことは事実だった。

  それは、『負けず嫌い』という性格だ。小学校の頃から負けることはだけ嫌いだった。学校の友達に腕相撲で負けると、家でその後毎日腕立て伏せを一日数百回やった。そして、それは負けた相手に勝つまで続けた。かけっこで負けると近所をずっと走り回っていた。そして、追い越された相手を追い越すまでこの練習は続けた。 誰かに評価されたかったからという訳でもない。親も特に「負けるな」といった訳ではない。ただ、中野自身が負ける自分を認められなかったのだ。

 小学校6年の頃からゴーカートを始めた。父の知人がやったらどうかと薦めてくれたこともあるが、決定的な理由は他にあった。父、常治がレースを辞めることになったのだ。

■サーキットを去った父親

 中野の父はレース界に何のコネもなくゼロの状態で飛び込んでいった。レースには多くの資金が要る。マシン代や整備費など莫大な費用が必要なので、レース関係者が元々知人であるかよほどの資産が無ければ普通は本格的に参加しようとはしない。

 しかし、中野の父はレースに惚れ込んでいた。内装工事という現場仕事をしながら、毎週土日にはサーキット場で練習をし、そして着実に資金を貯めてレースに参戦するようになっていた。普段は何も言わない父だった。中野にも自由な学校生活をさせてくれたし、勉強をしなくても咎めることはなかった。実際、中野の部屋に父が足を踏み入れた事もなかった。しかし、レースになると話は変わった。父は中野に対して厳しい態度で接し、常に真剣だった。レースをこの上なく愛する父にとって、中野が中途半端な気持ちでレースに触れることは許せなかった。

 中野の父はレースに対して本気で接し、それを自分の生きがいにしていた。レーシングドライバーとしての実力も徐々に認められ、30歳を過ぎた時点で日本のレースでは最高峰のFニッポンに参戦することにもなっていた。一人のレース好きが中嶋悟など当時のトップレーサーと同じレースに参戦できるようになったのだ。まさしく、これからレーシングドライバーとしての才能を発揮していく時期だった。このような時に中野の父がレースを辞める事を決意したのだ。

  理由はチーム(マシンの整備などをしてくれるメカニック、監督達の総称)とスポンサー達との意見の相違だった。中野の父はレースを始めて以来、懇意にしてもらっていたタイヤメーカーがあった。まだ十分に資金も無いときから協力をしてくれていたメーカーだ。ある日、スポンサーがタイヤメーカーを変えていきたいということを伝えてきた。チームもそれに賛成した。しかし、中野の父はこれに反対した。Fニッポンに参戦できるようになるまでお世話になった人を裏切ってしまう行為はしたくない。これがきっかけでチームやスポンサーと意見が分かれた中野の父は、お世話になった方へ義理立てをするような形でレース界を去っていった。中野の父は今後レーシングドライバー続けていくことを断念した。

 まだ30過ぎとはいえ、それまでレースを自らの人生の軸にしてきた人だ。自らに対してもとても厳格であり、常に家と仕事場そしてサーキット場の間を行き来する以外、どこにも行かない父だった。家族を養っていくため、そしてレースに参戦するために必要な資金を稼ぎ、そして無駄使いをしないために中野の父は遊びにいったり酒を飲んだりは決してしなかった。何においても手を抜かず、人を裏切らないし、自らに甘えを許さない。このような父がレースを辞めた。表面にはあまり出さなかったが、中野の父は相当悩んでいたそうだ。そしてくやしがっていたそうだ。実際にレーシングドライバーとしての人生を辞めてから、8年間、サーキット場には一歩も足を踏み入れなかった自分の居場所でもあり、あれほど好きだったサーキットに、一切足を踏み入れなかったという。

  8年ぶりに足を踏み入れたのは、中野信治がカートからF3へのデビューをした時に我が子を応援する父としてサーキット場を訪れた時だった。

■驚異的な中学生

 いずれにせよ、一時期中野家からレーシングドライバーがいなくなった。しかし、すぐに新しいドライバーが誕生した。中野信治が父に代わり、本格的にカートの練習を始めたのだ。

 やはり父親の影響は大きかった。曲がったことが嫌いな父親の背中をみて中野は育った。ゴーカートを始めた時も最初はただ楽しいだけだった。それまでも、中野は走ることや自転車で走ることは好きだった。しかし、今度の乗り物はスピードが違った。時速100~120キロが余裕で出るマシンなのだ。11歳の少年にはたまらない、他では一度も味わう事が出来なかった楽しさがあった。だが、レースを引退した時の苦しそうな父親の姿を見ていた中野は、楽しさだけでカートを続けることは出来なかった。

  父の気持ちを引き継ごう。そう考えて練習を行うようになっていった。父親もそのような中野を応援してくれた。運転の仕方から整備の仕方まで様々な事を教えてくれた。しかも、非常に厳しく指導をしてくれた。今まで、家でもレース以外の話はした事が無かった。しかし、コーチ、レーサーという関係になると会話は本当の意味でレース一色になった。そして、レースにかけてはこだわりを持つ父親は中野に厳しく接していった。当時、サーキット場にいた人達はまだ若い少年が父親に本気で怒られ、時には殴られている様子を記憶に留めている。

 こうして父との二人三脚で戦うようになった中野はゴーカートで非常によい成績を残していく。当時、子供がゴーカートをすることなど考えられなかった。周りは20~30代の大人ばかりだった。もちろん、みんな真剣にレースに挑んでいる選手ばかりだった。しかし、彼らを相手に中野は走れば1位か2位の成績をおさめていた。

 カートは600~1000メートルのサーキットを20~30周する競技なので、時間としては20分程度のものだ。しかし、圧倒的なスピードで中野は他の選手に勝っていた。2位になると口惜しがっている中学生を周りの大人たちは驚きと共に見るようになっていた。

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