頑張る人の物語

中野信治

『中野信治との出会い』2/5編

■プロとしての自覚

 中学では、最初は陸上部にも入っていたがカートの方で徐々に大きな大会などに参加するようになると部活は辞めてしまう。基本的に練習は毎週日曜に父親と共に練習をしていたが、自主練も含めてその日数は確実に増えていった。学校自体にもあまり通えなくなった。

ただ、出席日数が足りなくても試験でいい成績さえとれば認めると教師が言ってくれた。それまで、勉強をするという意識は全く無かったが、レースを続けたいという思いが強く、中野は練習の合間に勉強をして出席日数をカバーする為に必要な点数を取ることに集中した。レースで勝つと嬉しかった。そして、勝つとさらに上を目指したくなった。中野は父にメカニックとしても関わってもらい、次々と腕をあげていった。11歳の頃からレースに足を踏み入れて以来、基本的に中野はレースを辞めたいと思ったことは無い。ただ、一回だけ試合への参戦をためらい、それを父親に伝えた時があった。

 それは、高校受験の前日のことだった。高校受験の前日にカートの全日本選手権が開催されることになっていた。当時、中野は15歳。この年から15歳からでも参戦できるようになっていた。もちろん、中野も参戦したかった。しかし、さすがに高校受験の前日だ。少しためらいながら父親に考えを伝えた。「あのさ、今度のレースは休ませてくれないかな?やはり高校受験の前日だし・・・」 父親は激怒した。「あほか。お前、何言ってんのや?ほんまにやりたいのは何か、今お前がやるべきことは何なのか、きちっと自分で 考えてみい!!」

 レース以外では父親は中野に何も言わない。もちろん、怒りもしない。しかし、一度レースの話になると、どんな時でも妥協は許さなかった。それは高校受験時においても同じだった。父、常治はさらに続けた。「受験なんていうのは何ヶ月も前から分かっていたことだろ!ちゃんと勉強しておけば前日にあわてて勉強なんてすることは無い!お前計画性無いんちゃうか?」中野は多少抵抗した。父に抵抗することなんて珍しかった。「でも、この1回のレースを休んだからと言って、自分がドライバーとして辞めるわけじゃない。まだ若いんやし・・・」

 だが、この頃になると、中野の心のどこかで将来はレーシングドライバーになろうという事を決めていた。ドライバーとしての道を大切にしていった方がいいだろうと素直に考えられるようになっていた。中野はしばらく考えた後、父親の意見が正しいという結論を下した。そして、今になってこの頃の事を振り返ってこう言う。「どんな時でも真剣に参加をする。それがプロだ。今の僕だったらやはり迷わないでレースへの参戦を決めていたでしょうからね。」

 無事に高校には入学できたが、中野は高校に入ってからもカートを続けた。レースで優勝をすると応援してくれる人も増えてくる。タイヤやパーツを無料で提供してくれる会社も現れてきた。このようになってくると、父は益々厳しくなった。父は応援してくれる人、支援してくれる会社に対して責任を持つように厳しく言った。もう既に中野は自分自身のためだけに走っているのではない。支援してくれる人や企業の名前を載せてレースに参戦しているのだ。このような人への責任を持つようにと父は厳しく言った。最低限、完走はするように中野に言った。それは、自らが引退した時に懇意になっていたタイヤメーカーに対する責任を果たそうとし、そして結果的には果たせなかった自分への戒めであったのかもしれない。

 中野はそんな父にとても感謝をしていた。何か恩返しをしたかった。恩返しの方法として、彼が考え付いたのがレーシングドライバーになることであり、レースに勝つことだった。そして、それは父親に対する貢献という意味だけでなく、中野自身の楽しみでもあった。

■プロになる

 このようにして益々成長していった中野は87年、香港にて開催された国際カートGPにて優勝をする。世界中からカートの代表選手が参戦していた。中野は若干16歳での参戦で、もちろん参加者中で一番若い年齢だった。日本人としてこの大会で優勝するのは彼が初めてであり、また大会最年少の記録であった。父も喜んでくれた。そして何よりも負けず嫌いな性格の本人がこの瞬間に世界一になれたことへの喜びはとてつもないものがあった。多くのレース関係者が中野を認め、褒め称えた。しかし、そんな中野は学校では浮いた存在だった。群れを成す性格ではない。またレースという特殊なことをしており、ルックスも悪くないので女子にももてた。やっかむ同級生がいて当然の話だった。机や校門には落書きはされるし、下駄箱もよく潰される。喧嘩も日常的に売られた。

 しかし、多くの高校生が学校生活だけが人生の大半であるのに対して、中野信治には別の人生があった。学校で浮いている事は特に彼にとって苦にはならなかった。レースの世界で一番になれればいい。そうした事を考え、トレーニングなどを毎日行っていた。友達とどこか遊びに行くことなどは全くせず、ただトレーニングジムとサーキットが中野の生きる場だった。こうして練習を重ねる中野に、一つのいい知らせが舞い込んできた。それは、株式会社無限というエンジンメーカーからの提案で、無限が持っているチームのワークスドライバーにならないかという提案だった。ワークスドライバーというのはプロフェッショナルの専属ドライバーという意味であり、とても名誉なことだった。大抜擢であり、ステータスにもなった。この年齢でワークスドライバーとして検討されることだけでも当時では異例だった。ましてや選ばれるなどとは有り得ない話だった。

 この話を受けて、中野はもっと意識を高く持つようになった。そして、父親ももっと厳しくなった。しかし、継続的に力を発揮できるレーサーとして外部的な評価を得ることができたことは中野にとっても父親にとっても名誉なことだった。

■F3への転向

 こうしてしばらくカートの選手として好成績をおさめていった。そして18歳になると全日本F3に選手へと転向をする。カートには免許がいらないので18歳未満でも運転が可能である。しかし、四輪のレースは18歳以上で無いと運転が出来ない。中野は免許を取るとすぐにより大きな世界が待ち受けているF3へと転向を希望したのだ。実際、サーキット場は大きかった。カートを始めた時もカートのレース場が大きく感じた。そして、子供用のヘルメットなど無かったので、最初はヘルメットが大きくて、また重苦しくて苦しかったのを覚えている。しかし、今度走ることになったサーキット場は文字通り大きかった。

 また、カートとは違い、ギアもついているし車の大きさも全く違う。運転方法なども異なるものがあった。中野はまた父親からアドバイスを受け、このF3というレースに挑戦をしていった。このサーキット場が父、常治が走っていた舞台であり、その夢を諦めることになった舞台であった。父も息子である信治を応援するために8年ぶりにサーキット場へと足を踏み入れることとなった。この頃、また中野は父親を尊敬する出来事があった。F3に参戦するにあたって、より多くの資金が必要になったことから中野も父と一緒に内装工事の現場仕事をするようになった。朝の5時から夜の12時まで仕事は続く。こんな仕事を毎日、10年間以上やってきたのかと改めて中野は父親を見直した。そして、この人が託してくれた夢を自分が絶対に実現させたいと堅く思うようになっていた。

 F3の選手となり、最初にあてがわれたマシンは旧型のものであった。レースはドライバーのスキルだけで勝てるものではない。ドライバーのスキルとメンタリティ、チームとの相性、マシンやエンジンの性能・整備具合など様々な要素が完璧に絡み合った時にはじめて勝つことができる。この時、無限の人からは「敢えて苦労をしてみろ」という意味合いも込めて、性能の劣るマシンを使うように言われた。

 今まで1位か2位かしか考えていなかった中野だったが、F3では6位が最高だった。勝ち目の無い環境ではあった。しかし、勝てなかったのは恐らくマシンの性能のせいだけではなかっただろう。この頃、中野はチームとのコミュニケーションをそこまで意識していなかった。レース競技の選手はドライバーだけではない。マシンを整備し、最高のコンディションで参戦させてくれるメカニックなどチームの人達もまた同じ優勝を目指す選手だ。

 どんなにいいドライバーでもチームとの相性が悪ければ勝つことが出来ない。武力がどんなに高くても軍師がいない部隊が弱いのと同じことだ。チームとのコミュニケーションの必要性は後になって中野は気づくが、この時はそこまで意識は高くなかった。このこともおそらく上位入賞への壁を乗り越えられない理由だったのだろう。だが、もちろん当時あてがわれたマシンでも6位になるというのは凄いことではあった。

■日本から世界へ

 このように戦いの舞台をカートからF3に変えた中野は、90年になると舞台を日本から世界へと変えることとなった。イギリスへと2年間渡ったのだ。株式会社無限と中嶋悟氏が日本レーサーの若者育成プログラムを当時はじめていた。若者育成ということであれば中野信治が選ばれないわけが無かった。上手くタイミングもあい、中野はイギリスでレースを行うことになった。イギリスではフォーミュラ・ボクゾールやフォーミュラ・オペルに参戦した。これはF1の前座として行われるレースで、ヨーロッパ中の選手が参戦しているものだ。海外から強い選手が多く参加していた。今でもF1で有名なルーベンズ・バリケロやマウラーレン・デビットクルサード、そして2003年インディ500にて優勝をしたジル・ド・フェランなども参加していた。

 こうした強豪が参戦する中、中野はシリーズを通じて優勝1回、シリーズ5位という素晴らしい成績を残した。マシンもよければチームとの相性もよかった。やはりレースというのはドライバーの力だけでは優勝はできない。「正しい時期に正しいタイミングでその場に居合わせる事。そのマシン、そのチームと巡り合い、その場で最大限の力を発揮できないと結果は出ない」

 中野はレースの厳しさを僕に教えてくれた。結果としてはいい成績をおさめたイギリスでの修行であったが、中野にとってはレーシングドライバーとしても人間としても大きく悩まされた時期だった。中野はこの英国滞在がはじめて実家を長期離れた経験だった。生活面含めて一人で全てを行うこと、違う文化で言葉も最初は分からない。さらに、練習中は他の選手よりも速いスピードで走ることができるのだが、いざ試合になると何故か負ける日々が当初は続いた。別に他の選手が練習中には手加減をしているという訳ではない。レースとはそのような事をしていては本番に勝つことなどとても出来ない競技だからだ。要因は自らにあると中野は考えた。必死になり、他の選手との違いを考えた。

  また、日本から大量に歴史小説を取り寄せ、生死の境目に立たされた歴代の武将達がどのような判断をしていったかを読み解いていった。他の選手との比較、歴代の武将達の分析をして中野は自らに不足していたものに気づいた。それは勝つことへのハングリー精神であり、メンタル面の厳しさだった。やはりヨーロッパの他の選手は真剣だった。日本の選手ももちろん真剣な人達もいる。だが、ヨーロッパの選手と比べると意識が違った。ヨーロッパの選手達は勝つためには何でもやろうとしたし、試合前の緊張感は凄まじいものがあった。

 中野は決意した。「自分が挑戦していくのは世界の頂点だ。エベレストの山頂にいったらさらにまた別の山頂が見えてくるようなもの。多くの天才達が集う中で、彼らに勝つことができるのは自分の意識を常に高く持つ事、これが大事だ。常にセルフコントロールをしていこう」中野は付き合いでも酒を飲む事は一切止め、レース期間で無いときにも自らを律することにした。常に自らに厳しく生きた。食事にも気を遣い、体調管理などにも意識をやった。トレーニングなども今まで以上に熱をいれてやるようになった。

  ここに、今の中野信治の人格が出来上がった。

■スキルだけじゃレースは勝てない

 話がそれるが、実は僕自身も中野に対して小口のスポンサーをしている。それは、レーシングドライバーとして世界一位になろうとしている彼の夢に惹かれ、それを達成しようとしている彼の信念に共感をしたからだ。そして、この信念は中野がイギリスに行っている間に養われたものだった。

 彼はいつも言っている。「自分は勝つためには何でも努力する。スキルだけじゃレースは勝てない。チームとのコミュニケーション、マシンとの相性、そして最後の最後には自らの意識。やはり0.01秒が勝利を左右させ、生死を左右させる。こうした中で常日頃からセルフコントロールをやっていることがやはり大事だと思う」冒頭にも書いたが、レース中、コックピットの中は50℃にも達し、心拍数は170を超える。この状態で2時間以上もいることは並の人間では出来ない。もちろん、意識が薄らいでいく時もある。

 しかし、この時にも常に高い意識を保ち続けなくてはレースには勝てない。一瞬の油断は命取りにもなる。そのためにも日頃からのセルフコントロール、摂生は欠かせないものとなる。このように常にレースに勝つために、正確にいうとレースに勝てる人になるために普段からセルフコントロールをかける中野の姿勢に僕を強く刺激をうけた。

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