頑張る人の物語

中野信治

『中野信治との出会い』4/5編

■Crash!

 だが、いい時期は長くは続かなかった。初戦後のテスト走行時に中野はクラッシュをしてしまう。大破したマシンから引きずり降ろされた中野に意識はなく、そのまま病院に搬送された。その場にいたチームスタッフに聞いた話では、生きているのが奇跡と言うほどの大事故だった。外傷などはそこまでひどく無かったが、頭が重い感じがして検査をすると脳内出血が進んでいた。すぐに集中治療を行い、これも奇跡的に回復をしたがしばらくはレースをすることが出来ない体となってしまった。

 CARTのレースは2戦、3戦、4戦と続けられていく。テレビ画面を通じて中野は自分が参戦できない口惜しさを覚えていた。中野はしばらくリハビリとテレビでレースを観戦するだけの日々が続いた。そして、リハビリもしばらくした時点で、中野は一時日本に帰り、自らが初めてゴーカートに乗ったサーキット場へとやってきた。

 F1やCARTと比べると圧倒的に小さいゴーカートのマシンに久々に身を委ね、中野は懐かしいレースを走ってみた。マシンの操縦は事故以来であったが、生まれて初めての生死をさまよった大事故からの復帰であったが中野に走る事への恐怖心はなく、改めて走れる事のありがたさを実感し、迷わずCARTへの復帰を決意した。そして、中野はCARTに復帰を果たした。

■プロのレーサー、プロのメカニック、プロのチーム

 復帰後、中野はCARTで日本人史上最高位となる4位を獲得するなどの成績を残している。だが世界一を目指す中野は決してこの結果に満足する事はできなかった。しかし、そんな中野をさらに追い討ちをかけるように様々なアクシデントが襲っていた。レース中にタイヤが急に外れたり、ガソリンの蓋が閉まっておらずレース中にマシンが炎上して中野自身が火だるまになったりと生死に関わる事故が大事な時によく起きた。

 「特に3年目である2002年は大きなチャンスが幾度となくありながら、自分とは関係が無い部分での数多くのマシントラブルで、本当に欲しい結果が残すことができなかった。」中野は僕にこの頃の事をこのように語った。『自分とは関係が無い部分でのマシントラブル』。最初、中野にこの話を聞いた時に彼が珍しく言い訳をしているのかと思った。中野は決して言い訳をする人ではない。何か出来ない事があると、全てを自らの責任とし、その解決策を考えていく。こういう人だ。こうした中野でさえも他者のせいにしてしまうのかと最初は思っていた。

 しかし、僕の考えは間違っていた。中野はチームの人達を尊敬していた。モータースポーツはドライバーだけのスポーツではない。監督、メカニック、タイヤメーカーなど全ての人達が一緒になって勝利を掴んでいくものだ。ドライバーがプロなのであれば、メカニックもプロだ。同じプロであれば当然にして果たすべき役割がある。中野はチームを尊敬していたからこそ、チームにプロとしてのクオリティを求めていた。そして、タイヤが外れたりガソリンの蓋の閉め忘れたりなど初歩的な所でのミスをすることはプロのチームメンバーとしては許されないことだった。

 チームに対しても厳しくなる代わりにチームからも厳しくしてもらう。こうした環境だからこそ優勝へ近づくことができるのだと中野は考えていたのだろう。中野がドライバーとして才能があること、そして何よりも努力をしてその才能を最大限に発揮できるようにしていることは彼を知る関係者が皆理解していることだ。結果として、とてもいい成績を記録できた訳ではない。

  しかし、そこには中野が語るようにレースにトラブルはつきものとはいえ自分が関係しない、“ありえないミス”があったことも事実であり、そうしたことはあまり知られていない。中野がプロのドライバーである以上、結果が求められるのは当然のことだ。そのことを誰よりも理解している中野は、様々なトラブルで満足のいく結果が出せなかった時も言い訳をすることはなかった。やりきれない思いをひとり自分の中に押し込め、どんな言葉にも耐え続けた。しかしそんな中野の姿勢が思わぬ展開を招いてしまうこともある。

■走る事のできないレーシングドライバー

 2002年末ホンダはアメリカでのモータースポーツビジネスの体制を一新させた。その一連の流れの中で、中野は結果的にシートを失うことになってしまったのだ。走る事のできないレーシングドライバー・・・ この時期、中野は色々と考えた。

 日本に帰り、レースを続ければ安定的な収入と勝利は期待することができる。やはり中野信治は世界レベルのレーシングドライバーであり、人気・実力共に日本の中ではトップレベルであることは事実だからだ。だが、それは中野が許さなかった。中野自身が世界1を目指したいという思いが消えなかった。中野はこの時32歳。平均的なドライバーの年齢を考えると、レーシングドライバーとして世界の頂点を目指すには時間が限られている。世界1を目指すのであれば、今しかなかった。

  そして、きちんとした体制で戦うことが出来れば世界1を掴み取ることができる自信があった。

■共感を生む人~中野信治

 2002年12月末から、中野は自らスポンサー周りを開始した。F1、CARTと世界のトップカテゴリーで挑戦し続けたドライバーが自らスポンサーに連絡をして協賛金依頼をすることは極めて異例なことだ。もちろん、中野がすべきことはスポンサー集めだけでなく、チームとのコミュニケーションや自らのトレーニングなどもある。時間を作り、中野は全てをこなしていった。

 昼は何十社という会社に電話をかけスポンサー周り、夜はアメリカにいるチームと直接交渉と文字通り休む間が無い生活が続いた。このような中、ある会社のオーナーが中野に対して尋ねた。「何でF1、CARTと頂点を極めた君がこうまでして資金集めに走るんだ?」「世界1になりたいからです」「そこまでして世界1になりたいのは一体何故なんだ?」

  「それが自分の夢だし、自分を育ててくれたレースに対して恩返しをしていきたいからです。今なら世界一位になれるという自信があります。これが2年後、3年後になってしまうと正直な話、もう世界一位にはなれるその可能性は低くなってしまいます。でも、今自分がきちんとした体制で参戦することができれば世界一位になれると思っているし、そしてそう思えていないのであれば僕は今皆さんから協賛金を受けようとは思いません」

 しばらくのやりとりの後、この会社のオーナーは中野に対するスポンサーを決意する。やはりその夢と中野の信念に惹かれたのだ。

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